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2008年1月31日 (木)

昔遊びと餅つき

 今日は、1年生の「昔遊び」、そして5年生の「餅つき」であった。
 
 1年生の「生活科」、5年生の「総合的な学習の時間」の授業である。
 
 
 
 地域の方々が、協力してくださった。
 
 保護者の方も、協力してくださった。
 
 「昔遊び」と「餅つき」を合わせて、50人以上の方が、学校の教育活動のために協力してくださったのだ。
 
 
 
 ありがたいことである。
 
 あたりまえだが、無償である。
 
 ボランティアである。
 
 地域や保護者が、このように学校の教育活動に協力してくださることに対して、本当に、本当に、感謝している。
 
 
 
 近藤は、見た。
 
 普段の授業では、45分間席につくことが難しい子どもが、今日は、きちんと順番を守って、遊んでいるのである。
 
 近藤は、聴いた。
 
 「副校長先生、いつもは仕事になかなか取り組むことができない○○さんが、今日は、自分から進んで仕事をしていました!」
 
 
 
 今日の、この、教育的成果を生み出したのは、地域の方、保護者の方である。
 
 すばらしいことである。
 
 
 
 もちろん、それをコーディネートしたのは、本校の先生方である。
 
 これも、すばらしいことである。
 
 
 
 さらに、それをバックアップしたのが、用務員さんや給食調理員さんである。
 
 「昔遊び」が終わった後に、図工室で、お茶を出した。(今日は、寒かったので、暖まっていただこうと思ったのである)
 
 その準備を、用務員さんが、全部やってくれた。
 
 
 
 「餅つき」が、やや予定よりも遅れて終わった。
 
 給食を取りに行くのが、5年生は、少し遅くなった。
 
 しかし、それに、しっかり対応してくださったのが、給食調理員さんである。
 
 
 
 ここに書いたことは、学校現場ではたらいたことのない方には、少し、わかりにくいかもしれない。
 
 しかし、学校というところも、チームワークで成り立っている。
 
 
 
 全体をコーディネートし、今日の、子どもにとっての価値ある体験を創ったのは、校長先生の裁量である。
 
 
 
 今日は、とてもよい体験をさせてもらった。
 
 
 
 え?
 
 副校長は、なにをしていたかって?
 
 もちろん、いろいろ、働いていた。
 
 具体的内容は、ここには、書けない。
 
 でも、近藤も、一生懸命、働いていたことだけは、書かせてもらおう。
 
 
 
 地域の方、保護者の方、先生方、職員の方、そして校長先生、今日はありがとうございました。
 
 
 
 子どもが価値ある体験をするところをみることができて、喜ぶ近藤である。

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2008年1月30日 (水)

学校現場の負担軽減への道

 昨日、「文部科学広報」が届いた。
 
 文部科学省発行の広報誌である。
 
 
 
 そこに、「学校現場の負担軽減について(中間まとめ)」という記事があった。
 
 冒頭に「文部科学省では、昨年十一月に『学校の現場負担軽減プロジェクトチーム』を立ち上げ、四回の会合を開き、十二月七日に『中間まとめ』のとりまとめを行いました」とある。
 
 そこには、平成二十年度政府予算案に、負担軽減のための予算が盛り込まれていることが書かれていた。
 
 
 
 すばらしい!
 
 この財政難の折、どこにお金を使えばいいか、よくわかっていらっしゃる!
 
 にくいね!このっ!文部科学省!!
 
 
 
 さらに、
「また、文部科学省の省内に『学校現場の負担軽減連絡会議』を設け、調査文書の見直しその他の学校現場の負担軽減方策を進めることとしています。」(下線・近藤)
 
 そうなのである。
 
 学校には、いろーんな調査文書が来る。
 
 その調査や処理のため、先生方の子どもと向き合う時間が削られることもある。
 
 文部科学省は、問題のとらえが、的確である。

 さすがである。
 
 学校現場のことを、よくわかっていらっしゃる。
 
 
 
 さらに、さらに、こう書いてある。
 
 「今後とも、文部科学省では、学校現場の負担軽減に積極的に取り組んでいきたいと考えておりますので、各教育委員会や各学校におかれても取組を進めていただきますようお願いいたします。」
 
 はい、はい、もちろんです。
 
 学校でも取組を進めていきたいと思ってます。
 
 いっしょにがんばりましょう!
 
 
 
 と、悦に入っていたところに、校長先生に電話が入る。
 
 「○年生と○年生を対象に、アンケート調査をしてほしいのですが…。子どものアンケートについては、学校で集計し、データをこちらに送ってほしいのですが…」
 
 あいたたたた…、こりゃ参った…。
 
 
 
 夢は大きく、道は険しい、学校現場である。 

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2008年1月29日 (火)

隠ぺい体質

 本日の神奈川新聞、地域版から。
 
 見出し。「『抜てき』副校長、文書訓戒 事務費支払い怠る 横浜市公表せず」
 
 その記事の最後の文章。
 
 「『市教委は抜てきしたのがみっともなくて処分を隠ぺいしたのではないか』などの声が出ている。」
 
 
 
 マスコミとの接触の多い方から(市役所勤務の方である)、聴いたことがある。
 
 マスコミの「教育委員会」への印象は、「『隠ぺい体質』である」そうだ。
 
 この記事の見出しの最後「横浜市公表せず」とあるところに、マスコミの
「教育界や学校は『隠ぺい体質』ですよ。ほらね。こんなことを、隠そうとしていたのですよ」
というメッセージを、近藤は、感じてしまう。
 
 さらに、最後の文章、「『市教委は抜てきしたのがみっともなくて処分を隠ぺいしたのではないか』などの声が出ている。」…
 
 

 
 近藤は、「教育界や学校は『隠ぺい体質』」という見方を、「全」否定はしない。
 
 悲しいかな、十分な「根拠」と「説得力」なしに、学校で起こっている出来事を公にしないようにしようとする場合がある。
 
 誠に、残念である。
 
 そういう印象をもたれていること自体が、残念である。
 
 
 
 しかし、横浜市に限れば、おおむね、情報を公にしている(と思っている)。
 
 公にできない時には、それなりに「根拠」がある。
 
 簡単に言えば、その「根拠」とは、「子どもと保護者を守るため」である。
 
 
 
 マスコミ関係の方は、
「まずは、情報を提供しろ。出すか出さないかはわれわれが判断することだ」
という理屈をおもちだそうである。(これも伝聞情報です。ごめんなさい)
 
 その情報が、どのように活用され、どうなるかの判断は難しい。
 
 マスコミの方は、情報を扱うプロなので、その判断を委ねたい気持ちも、近藤には、ある。
 
 しかし、実際には、委ねたために、子どもや家族が傷つく事例があると聞いたことがある。
 
 そうなると、こちら(教育関係者)としても、考えざるを得ない。
 
 情報がどう活用されるかを予想するのはマスコミの専門だが、活用された情報によって子どもがどう思うかを予測できるのは、マスコミよりも教師の方が専門である。
 
 
 
 だからこそ、「子どもへのリスク」「保護者へのリスク」を考えて、情報提供をしない場合があり得るし、それは、現場の教師として、当然の判断だと、近藤は思う。
 
 
 
 「人間」より重要な「情報」など、あり得ないのである。
(「情報」は、「人間」を幸せにするためにあると、近藤は思っている)
 
 
 
 もう一度書く。
 
 公教育に携わる人間が「隠ぺい体質」とよばれてもしょうがないような事例も、近藤は、知っている。
 
 しかし、それには「根拠」があるのである。
 
 それを、マスコミの方に、わかるように説明できていないのは、こちら(教育関係者)の責任かもしれない。
 
 それは、反省に値する。
 
 しかし、だからといって、現場の人間として、「子どものリスク」があることが(プロの教師から見て)わかっている状況で、情報提供はできないのである。
 
 
 
 これを、ぜひぜひ、マスコミとよばれる方々には、知ってほしい。
 
 
 
 「教育界や学校は『隠ぺい体質』」という印象への、小さな反論がある。
 
 それは、現役の小学校の副校長が、毎日の出来事を、自分の言葉で綴っていることが許されるということである。(当たり前であるが…)
 
 つまり、このブログの存在そのものが、反論である。
 
 このブログは、「教育界や学校は『隠ぺい体質』」という印象への、近藤の、小さな、小さな抵抗でもあるのだ。

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2008年1月28日 (月)

うまく、言葉にできなかったこと

 朝、登校する子どもたちを、校門でむかえる。
 
 校長先生も、毎朝、校門の前の交差点で、子どもたちが安全指導をしている。
 
 Aさん、登校する。
 
 朝からご機嫌斜めである。
 
 表情を見れば、すぐわかる。
 
 校長先生と、目配せをする。
 
 
 
 今日は、月曜日なので、朝会がある。
 
 校長先生は、一足先に、朝会に出る。
 
 近藤は、最後に登校してくる子どもを見届けて、校門を閉める。
 
 
 
 職員室に戻り、朝会に出ようとする。
 
 職員室から校庭を見ると、
「あ、Aさんが、いない…」
 
 すぐに、Aさんのクラスに行く。
 
 予想通りだった。
 
 たいへんな状態だったのである…。
 
 
 
 本校の児童数は、およそ350名である。
 
 一人ひとり、どの子も、大切な、大切な、子どもたちである。
 
 その学校の校長先生は、一人である。
 
 その学校の副校長も、一人である。
 
 350名の子ども一人ひとりに、管理職は対応しきれるはずもない。
 
 当然、一人ひとりへの教育は、直接的には、担任の先生が担っている。
 
 
 
 先生方は、本当に、真剣に、一人ひとりの教育にあたっている。
 
 しかし、一人の担任では、対処しきれない出来事も、多い。
 
 だから、チームで対応する。
 
 しかし、チームといったって、担任をもっていない先生など、小学校では、ほとんどいない。
 
 みんな、自分のクラスのことで、必死である。
 
 
 
 だから、担任の先生方が援助がほしいと感じる「今、その時」に手助けができるのは、とりあえず、授業をしていない管理職である(事が多い)。
 
 副校長の出番である。
 
 しかし、援助がほしい「今、その時」が、いろいろな教室で同時に起こることがある。(今日が、そうだった)
 
 副校長は一人しかいないのだから、援助がほしい「今、その時」が複数起こったら、パンクである。

同時多発テロ、である。


 副校長の体は、一つしかないのである。
 
 だから、近藤にも、優先順位がある。
 
 同時多発的に緊急事態が起こったら、緊急性が高い方を優先するのである。
 
 緊急性が高いとは、「生命の危険」「身体の危険」度の高さである。
 
 
 
 ひとしきり、落ち着いて、放課後、Aさんの担当の先生と、少し話をした。
 
 
 
 「Aさんも一生懸命。Aさんの保護者も一生懸命。でも、うまくいかない。だれも、悪くない。しかし、お互いが、必死になっている。もちろん、先生方も一生懸命。その営みが貴重である。みんながんばっていることに、近藤は、何ができるのか…」
 
 近藤の思いは、こうだった。
 
 しかし、うまく、言葉にできなかった。
 
 
 
 今日のブログは、まったく、意味不明である。
 
 近藤が、何を伝えたいのか、きっとわかってもらえないだろう。
 
 
 
 それで、よい。
 
 具体的に書けば、個人が特定されることが想定される。
 
 だから、これが、限界だ。
 
 
 
 本校の先生方と、管理職は、一人ひとりの子どものことで、毎日、必死だということだけ、伝わってほしいと思っている。
 
 

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2008年1月27日 (日)

眼から鱗の研究会

 昨日の「横浜教育フェスティバル」で、「『横浜版学習指導要領』で進めるこれからの学校づくり」の分科会に参加した。
 
 勉強になった。
 
 
 
 NHK報道局社会部副部長の方の話は、わかりやすかった。 
 
 「現場で、主体的に教育活動をしよう。」
 「先生方は、真面目すぎ。もう少し、手を抜いた方がいい。」
 「誇りをもって、仕事をしよう。」 
 
 どれも、同感だった。
 
 
 
 北村校長先生の話は、非常に、勉強になった。
 
 「横浜版学習指導要領の表紙だけ太尾小に直し、ここから出発して、PDCAサイクルで太尾小学校らしい教育課程を創っていってはどうかと考えたり…」
 
 現場の発想である。
 
 「我が意を得たり」という感じで、拝聴させていただいた。
 
 
 
 今回の改訂に伴う、各学校での教育課程の編成は、これまでのイメージをかえなければいけないと、感じた。
 
 これまでのイメージとは
「各学校の教育課程は、各学校で文書化し、製本する。」
というイメージである。
 
 教育課程はカリキュラムという言葉の訳語である。
 
 これからの教育課程は、カリキュラムという言葉の本来の意味に、とらえ直す必要がある。 
 
 一般に「カリキュラム」と言えば、学期や年度のはじめに立てる授業や学習の「計画」を意味していた。しかし、「カリキュラム」の本来の意味は「学びの経験」にあり、その経験の軌跡である「学びの履歴」にある。カリキュラムの本義は、学期や年度の始まる前の「計画」として立てられるものというよりも、むしろ学期や年度の過程において子どもの学びの軌跡として創造され、学期や年度の終わりに子どもの学びの履歴としてできあがるものとして理解されるべきであろう。教室を開発の場として、教師と子どもの手跡を残したカリキュラムの創造が求められている。
(佐藤学『教育改革をデザインする』(岩波書店1999年)p111 下線・近藤)
 
 
 
 これまでの教育課程の編成は、「計画づくり」に労力と時間と金を費やしすぎていたように思う。
 
 むしろ、「計画」よりも、実践の過程とその「履歴」が大切なのである。
 
 だから、横浜では、各学校が「横浜版学習指導要領」に少しだけその学校らしさを加えるところからスタートすればよい。
 
 先生方が時間や労力ををかけるべきは、日々の実践とその実践のなかで一人ひとりにどのような学びがあったのかということを把握することである。
 
 
 
 誤解をおそれず書けば、スタートは「横浜版学習指導要領」のパクリでいいのだ。(美しくない言葉を使ってしまった。反省…)
 
 実際には、「横浜版学習指導要領 指導資料」がその役割を担うことになろう。
 
 
 
 眼から鱗の研究会であった。

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2008年1月25日 (金)

「講師」という仕事

 研究会の講師という仕事は、難しい。
 
 授業の事実をもとに、聞いていただく方に価値のある情報を提供しなければならない。価値のある情報とは、聞いていただいた方の教育実践が、よくなる情報である。
 
 
 
 昨日、横浜国立大学人間教育学部附属横浜小学校の研究発表会があった。
 
 体育の授業を見て、話をする仕事を与えられた。
 
 聞いていただく方がわかりやすく、そして有益な情報を提供しよう思っていた。
 
 しかし、ダメだった。
 
 昨日も書いたが、100点満点の30点くらいである。
 
 話の入りで、「つかみ」が甘かった。
 
 あれも、これも話そうとして、早口になり、聞きづらくなった。
 
 話の構成も乱れた。
 
 よかったのは、与えられた時間内に話し終えたことぐらいである。
 
 
 
 授業を見させていただいた先生から、お礼のメールが届いた。
 
 そこに、今日の研究会に参加した、他地区から来た初任の先生の感想も書いてあった。
 
 「…また、講師の先生のお話もとてもわかりやすく、明日から実践しようと思いました。…」
 
 
 
 ありがたい感想である。
 
 いくらダメな仕事でも、それを認めてくれる他者がいると意欲が高まる。
 
 なんてことはない。
 
 「研究会の講師」と「授業」というのは、とても似ている仕事だということに、終わってから気がついた。
 
 
 
 今回、貴重な機会を与えていただいた国大附属小学校の先生と、研究会に参加していただいた先生方に、感謝したい。

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2008年1月24日 (木)

がんばる教師、がんばる保護者を、応援したい

 午前中、附属小学校の研究発表会の講師の仕事。
 
 
 
 これは、これで、とても貴重な経験であった。
 
 自分の仕事的には、(「仕事的」ってなんだ?ひどい言葉だね)30点くらいの仕事だった。
 
 
 
 だが、今日、書きたいのは、そのことでは、ない。
 
 
 
 研究発表会の仕事を終え、たいへん失礼ながら、午後は学校に戻らせていただいた。
(本当は、一日、研究発表会に参加し、いっしょに勉強したかったし、校長先生にもそう言っていただいていたのだが…。近藤の力不足である)
 
 
 
 放課後、ある先生が、子どものことを報告してくださった。
 
 「報告」というと堅苦しいが、「職員室で、何気なく、子どものことを話す…」っていう感じである。
 
 すると、若い先生方も、話を聴きながら、話に参加する。
 
 近藤は、「自分が担任だったら…」という視点で、熱く、語る。(これが近藤の悪い癖である。)
 
 
 
 ひとしきり話し終わった後で、その先生方は、学年の話し合いをはじめる。
 
 勤務時間をはるかにオーバーした時間である。
 
 「副校長先生、私たちにつきあうと長くなるので、お気遣いなくお帰りください。」
 
 その先生が、言う。
 
 
 
 近藤は、反省する。
 
 熱く語り過ぎた…。先生方の時間をもっと大切にしなくては…。
 
 しかし、近藤の判断として、「これだけは伝えたい」ということを熱く語ったので、失敗だとは思わない。
 
 しかし、反省はしている。
 
 もっと、効率的な伝え方はなかったのかと…。
 
 未熟者の自己評価である。

 勤務時間をはるかにオーバーしてまでも、子どものために、がんばる先生方には、頭が下がる。
 
 別に、「だらだら仕事をして、勤務時間外まで仕事をしている」のではない。
 
 必要な情報交換をしていたら、必然的に、勤務時間外になってしまったのである。
 
 これが、教師の日常である。
 
 
 
 こんな先生方を、近藤は、自分のできる範囲の仕事において、精一杯応援したい。
 
 なぜなら、それが、「子どもたちをよりよく育てること」に直結しているからだ。
 
 
 
 教師が、がんばる。
 
 子どもは、教師の背中を見て、学ぶ。 
 
 保護者が、がんばる。
 
 子どもは、保護者の背中を見て、学ぶ。 
 
 がんばる教師、がんばる保護者を、応援したい。
 
 
 
 それが、今の、自分の仕事の一つだと思っている。
 
 それが、今の、自分の仕事のやりがいだと思っている。
 

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2008年1月23日 (水)

自慢話の続き

 今日は、先生方が、他校の授業研究に参加し、研修をする「一斉授業研」の日だ。
 
 午後の授業をカットし、他校に出張する。
 
 昨年までなら、近藤も、子どもを帰し、あわただしく他校へ出向いていた。
 
 しかし、本日の「副校長・近藤」は「留守番」である。
 
 
 
 職員室が、一気に、閑散とする。
 
 低学年サポートの先生だけ、職員室に残った。
 
 そこで、校長先生も交えて、いろいろ情報交換をする。
 
 
 
 この先生は、本校で、定年退職された。
 
 今回、低学年サポートを、学校でお願いすることになり、この先生を知る本校の職員から「ぜひ、○○先生を」ということになった。
 
 
 
 なるほど、すばらしい先生である。
 
 「低学年サポート」という、これまで経験のなかった職務に対して、みごとに対応している。
 
 さらに、たった1ヶ月あまり子どもと接しただけなのに、見事に子どもとの関係を築き、そして子どもの課題を適切にとらえていた。
 
 お話しをしていて、近藤も、たいへん勉強になった。
 
 
 
 さらに、さらに、すばらしいことがある。
 
 他の学年の指導のサポートに入ったところ、その指導を見た若い先生が「○○先生、すごい!」と感動していた。
 
 あまり、「すごい!すごい!」というので、「具体的に何がすごいと思ったの?」と、その若い先生に訊いたら、本当にすごかった。
(ちなみに、授業の「すごさ」を感じることができる教員はセンスのある教員である。ブログにも、何回も書いているが、本校の若手の教員は、その意味で、本当にセンスがあるのである)
 
 
 
 「すごい教育活動」は、実は、身近にあるのだ。
 
 これを、「公立学校不信」をもつ世の中の方に伝えたい。
 
 
 
 最近、若手の先生の自慢ばかりしていたが、今日は、本校の経験豊富な先生の自慢話でした。

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2008年1月22日 (火)

電話

 
 職員室で、電話をとる。
 
 「もしもし。校長か、副校長いますか!」
 
 「はい。副校長の、近藤でございますが…。」
 
 「あなたの学校では、いったいどんな教育をしているのですか!!」
 
 おしかりのお電話である。
 
 
 
 事情をお聞きし、謝り、これまでの指導とこれからの対応を、丁寧にお伝えする。
 
 電話をしてくださった方が、落ち着いてくるのがわかる。
 
 より適切な指導とこれからの対応の是非を知るために、お電話をいただいた方のお名前をお聞きしたが、それには及ばないということだった。
 
 お礼を述べ、電話をおいた。
 
 
 
 学校には、いろいろな方から電話がくる。
 
 「電話番」は、副校長の、大切な仕事である。
 
 前述のようなお電話は、ありがたいお電話である。
 
 地域での子どもの様子が、よくわかる。目に浮かぶようである。
 
 これから、学校で、どのような指導をすればよいかというわれわれの仕事の貴重なヒントを与えてくれる情報を提供してくれているのである。
 
 ありがたい。
 
 
 
 そのやりとりを聴いていた先生方が、心配して、声をかけてくださった。
 
 「どんな内容ですか。」
 
 「○○方面で、そんなことがあったと、お電話があったのですか。明日、子どもに訊いてみます」…
 
 
 
 ありがたいことである。
 
 校長先生に簡単に報告し、打合せで、各先生方に情報収集と指導をお願いする。
 
 
 
 しかし、こういった情報が学校に入る地域は、健全である。
 
 さらに、そういった情報に対し、対応しようとする職員のいる学校は、健全である。
 
 ご指摘のような子どもの行動は、おそらく、すぐには改善しないだろう。
 
 しかし、そういった指摘があれば、謙虚に耳を傾け、即座にできるかぎりの対応をし、理解を求める。
 
 それが、学校のできることであり、学校のすべき事である。
 
 
 
 子どもの粗相なら、いくらでも謝ろうと思う。
 
 それで、地域の方が安心をし、子どもがよくなるための情報を得ることができるなら…。
 
 
 
 ちょっと、かっこつけて、黒子である副校長のことを書いてしまいました…。
 
 でも、本心である。
 

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2008年1月21日 (月)

助言

 附属小学校の先生が、放課後、来校した。
 
 
 
 今週の木曜日、近藤は、横浜国立大学付属横浜小学校の研究発表会に参加する。
 
 授業を見て、コメントをする仕事を仰せつかっている。
 
 その授業をする先生が、やってきて、いろいろと話をした。
 
 
 
 ビデオを見ながら、話をする。
 
 楽しい。
 
 子どもの姿を見ながら、子どものことを語ることができる。
 
 
 
 それだけでは、ない。
 
 当日は、かなり、質の高い授業が展開されると、予想できる。
 
 ビデオを見る限り、近藤の予想を越えた、子どもの成長である。
 
 近藤は、この先生に、事前に、具体的な助言をした。
 
 それを、この先生は、見事に実践している。
 
 これは、この先生の力量である。
 
 近藤のせいではない。
 
 他者からの助言を、自分の中で消化して、実践に結びつけることができるというのは、すごいことなのである。
 
 当日、参加される方は、きっと、「超ラッキー」である。
 
 「これからの体育授業」の一例を、実際に目の当たりにできるからである。
 
 
 
 その先生が来校する前、初任の先生の体育授業について、相談にのっていた。
 
 センスのある若手の先生である。
 
 近藤なりに、一生懸命、助言をしたつもりである。
 
 その若い先生は、近藤のいうことを「きょとん」として、聞いていた。
 
 
 
 当たり前である。
 
 経験がないのである。近藤が、いくら話しても、実感が伴わない。
 
 だから、最後に言った。
 
 「最後は、○○先生が、『やってみたい』『やれそうだ』と思ったことを、全力でやった方がいいよ。成功しても、失敗しても、それが、一番、勉強になるから。」
 
 
 
 人に、ものを教えるということは、やはり、難しい。
 
 いや、「教えよう」と思っている近藤の心根が不遜である。
 
 
 
 人は、いくら「教えよう」としても「学ぶ」とはかぎらない。
 
 学ぼうとしている人と、タイムリーな情報が出会って、はじめて「学び」成立するのだ。
 
 この仕事(教師)をして、22年目が終わろうとしている。
 
 なのに、まだ、こんなレベルで失敗している自分が、情けない。
 
 
 
 初任の先生に、タイムリーな助言ができなかったことを悔いる、今日の近藤である。

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2008年1月20日 (日)

ご恩返し

 団塊の世代の先生方の退職が始まっている。
 
 それに伴い、若い先生が大量に採用されている。
 
 横浜市だと、小学校の職員の3分の1が5年未満の先生になっているという。
 
 
 
 企業では、若い社員への「専門的技能の伝承」が急務であるといわれている。
 
 教員の世界も、まったく同じ問題を抱えている。
 
 若い先生の力量が未熟なのは、当たり前である。
(近藤の若い頃を思い出すと鳥肌が立つ。未熟なんてもんじゃなかった。ひどかった。めちゃめちゃだった。それを書き始めると、一冊の本になってしまうのでここでやめるが…。)
 
 横浜市では、3年間でおおむね一人前に仕事ができることをめざして現職教員への研修を進めていると聞いた。
 
 結構である。
 
 近藤も、自分のできる範囲で、若手教員の成長を支援したいと思っている。
 
 
 
 平成20年1月12日(土)午後7時頃、ぼーーっとしながら、こんな事を考えていた。
 
 「若い先生は、教師としての力量が未熟である。授業も、下手である。ゆえに、クラスが崩壊する。若い先生が多いということは、崩壊するクラスが多いということになる。そこで学ぶ子どもたちが10年後、20年後、大人になる。大人になった頃、『私のクラスはこんなにひどかった』というクレームが次々に現れる。社会現象となる。そういった大人は学校に対して、不信感をもっている。学校不信が社会的に広がる…」
 
 ここまで考えて、あまりの恐ろしさに、「はっ」とした。

(思わず、メモをとった。近藤はこういったひらめきや驚きがあると、よくメモをとる)
 
 杞憂であることを願う。
 
 
 
 しかし、こういう展開も、考えることができる。
 
 「若い先生は、活力があり、元気であり、子どもとの年齢差が少ない。ゆえに、クラスに活気が出る。若い先生が多いということは、活気のあるクラスが多いということになる。そこで学ぶ子どもたちが10年後、20年後、大人になる。大人になった頃、『私のクラスはこんなにすばらしかった』という、若い先生が多い現在の状況の『よさ』が取り上げられる。社会現象となり、学校への信頼感が増す…」
 
 こうなれば、将来、バラ色である。 
 
 近藤は、本校の若い先生方を見て、将来に、非常に期待をもっている。
 
 本校の若い先生方は、未熟だが、素直で、前向きである。
 
 子どものことで悩み、子どもの成長を喜び、よりよい方法を求めて、進んで学ぼうとしている。
 
 子どもの目線で考えているので、近藤が、教えられることも多い。
 
 
 
 考えてみれば、若い頃、あれほどひどかった近藤が、クビにならないでなんとか今まで勤めているのである。
 
 近藤に比べれば、本校の若い先生方などは、「花丸」「二重丸」である。
 
 
 
 近藤が、曲がりなりにも、現在勤めることができているのは、これまで教えてきたすばらしい子どもたちや、保護者の皆さん、そして、よき諸先輩や同僚に恵まれたからである。
 
 今度は、自分の番である。
 
 ご恩返しのつもりで、若い先生方と、「今」「目の前の子どもに一番必要なこと」を模索しながら、いっしょに成長していきたい。 

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2008年1月19日 (土)

ジョギング出勤

 先日、極寒の早朝、ジョギングで出勤した。
 
 町はまだ暗い。
 
 自宅から学校までの約6kmを、ゆっくり1時間くらいかけて走る。
 
 体は走っているうちに暖まるが、手先や耳は冷たい。
 
 走っていると、風向きや風の強さに敏感になる。

 はじめの5分くらいは、体が走ることになれていないのがわかる。
 
 5分を過ぎると、少し慣れてきて、楽になる。
 
 出勤の6kmよりも、帰宅の6kmの方が楽だった。
 なぜだろう?
 自宅への道のりは、下り坂が多いのかもしれない。
 
 
 
 「体を使う」ことは、自分の体と対話をすることである。
 
 「体を使う」ことは、周囲の環境と対話をすることである。
 
 
 
 自分の汗、鼓動、呼吸、筋肉の疲労、頬の紅潮、耳の痛み…。
自分の体の微妙な変化を感じる。
 
 肌にあたる寒風、路面の固さ、周囲の暗さ、町の喧噪…。
周囲の状況が変化していく様子を感じる。
 
 
 
 バーチャルリアリティ全盛の中、「体を使う」体験を大切にしたい。
 
 近藤は、子どもの「体力不足」も問題だが、子どもの「体験不足」も大きな問題であると思っている。
 
 
 
 そんなことをぼんやり考えながら、その日は、冷たい路面を走って出勤したのである。

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2008年1月18日 (金)

書くことの難しさ


 「学校だより」という印刷物がある。
 
 保護者や地域の方に配る。
 
 学校の行事予定や、行事の様子などが掲載されている。
 
 
 
 その巻頭言を、校長先生が書く。
 
 修行の一貫として、年二回くらい、副校長が書く。(学校によっては、毎回、校長と副校長が書くこともある。)
 
 今日、その原稿を書いていた。
 
 
 
 気がついた。
 
 このブログを書くように、できないのである。
 
 言葉を選び、形式に配慮し、保護者を意識して、書く。
 
 
 
 このブログは、思ったことを、率直に、受け手にとって有益だと思うことを、書いている。
 
 ブログのように書こうとしたが、あきらめた。
 
 時間の無駄である。
 
 やらなければならない仕事は、山積している。
 
 
 
 というわけで、「学校だより」には、残念ながら、自分の納得のいく文章を書くことができなかった。
 
 いや、まだ、時間がある。
 
 もう少し、がんばってみよう。
 
 
 
 書くことの難しさを、あらためて感じた出来事であった。

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2008年1月17日 (木)

相談

 
 「副校長先生、ちょっと、いいですか…」
 
 臨時任用の先生である。
 
 この先生は、「学校の先生」という仕事を選び、今の仕事をしながら、日々、悩んでいる。
 
 真面目である。
 
 実直である。
 
 それだけで、この先生に、「教師としての資質がある」と、近藤は思うことができる。
 
 この先生の悩みに、「今、すべきことはこれ」「さらに、すべきことはこれ」という近藤の考えを伝える。
 
 
 
 「副校長先生…。」
 
 別の先生が、話しかけてくれる。
 
 勤務についての悩みである。
 
 これも、近藤の考えを伝える。
 
 その先生の思いが、痛いほど、わかる。
 
 真摯に、誠実に、応えたつもりだが、どう感じられたかは、わからない。
 
 
 
 成長の過程に課題がある子どもについての指導を、頼まれる。
 
 その先生には、「この子どもは大丈夫。クラスの子どもの指導に戻ってください。」と伝えて、その子どもを預かる。
 
 直接、子どもと、話す。
 
 なるほど、と思う。
 
 
 
 「事件は、現場で起こっているのである」
 
 昨日の、ブログに書いたとおりである。
 
 
 
 いろいろな相談をしてくれる職員に、近藤は、感謝をしている。
 
 先生方の思いや悩みもわかるし、子どものための支援もできる。
 
 なによりも、先生方と、「生の会話」ができるのが、うれしい。
 
 
 
 若い先生の「副校長先生、お忙しそうですけどいいですか…」
 
 という言葉に、近藤は、自分の無力さを感じてしまう。
 
 自分が忙しそうにしていたら、先生方は、話しかけずらいはずだ。
 
 だから、「いつでも相談してください」という感じで職員室にいなければならないのに、どうやら近藤は、仕事に追われている印象をもたれてしまっているらしい。
 
 むむ…。今後の課題である。
 
 
 
 そんな近藤なのに、多くの先生が、自分に話しかけたり、相談したりしてくれる。
 
 一生懸命、それらの先生の問いかけに、ベストな答えを返そうとしている、無力な副校長である。
 
 

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2008年1月16日 (水)

あたりまえ

 
 学校にインターフォンがある。
 
 「非常時には、インターフォンを鳴らすので、すぐ来てください」
 
 ある先生との約束である。
 
 
 
 今日、インターフォンが、鳴った。
 
 来客中であったが、すぐに、現場に向かった。(1分以内に現場に行くことを目標にしている。おそらく、今日は、1分以内には行くことができたはずだ)
 
 「○○さんが、上の階に…」
 
 すぐに急行、○○さんは、すぐに見つかった。
 
 
 
 おそらく、これだけの表現では、イメージできないだろう。
 
 しかし、これが、(近藤が、表現できる)限界である。
 
 伝えたいのは、「事件は、現場で起きている」ということである。
 
 
 
 「何かあった時」、とりあえず戦力になるのは、職員室にいる、「今、その瞬間、授業をしていない人」である。その、代表格が、副校長である。
 
 何かあったら、すぐに対応できること。
 
 これは、この仕事(つまり副校長)の、大切な資質であると、思う。
 
 考えている時間はないのだ。
 
 瞬間的な判断である。
 
 これは、担任の先生や実際に子どもと接している先生方と共通していることである。
 
 副校長の仕事の一つは、「必要に応じ児童の教育をつかさどる」のである。
 
 
 
 「教育は、スポーツだ」
 
 これは、ある先輩教師の言である。
 
 誠に、もっともであると思う。
 
 われわれの営み(つまり「教育」という営み)は、瞬時に状況を判断し、行動しなければならない。
 
 まさに、スポーツである。
 
 
 
 今日は、いつ、インターフォンが鳴るかわからなかったので、外回りの仕事(金融機関の仕事や地域への仕事)は、やめた。
 
 
 
 だが、多くの(ほとんどの)人々は、そんな「高度な一瞬の判断」のうえに平安な日々があることを、知らない。
 
 あたりまえである。
 
 それでよい。
 
 近代社会の「あたりまえ」は、「高度な一瞬の判断」に支えられているのだ。
 
 それができると認められているから、われわれ(つまり「教師」)は、血税から、いくばくかの報酬をいただいているのだ。
 
 
 
 今日も、「あたりまえの一日」が終わって、ほっとしている。 

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2008年1月15日 (火)

ずーーっと、気になっていたこと

 ずーーっと、気になっていたことがある。
 
 
 
 それは、このブログに貼ってあった写真のことである。
 
 昨日まで、「近藤が、プールでペットボトルをもった写真」を貼っていた。(2006年9月から15ヶ月くらい)
 
 ブログを開くと、「近藤が、プールでペットボトルをもった写真」がある。
 
 真冬でも、「近藤が、プールでペットボトルをもった写真」である。
 
 「近藤が、プールでペットボトルをもった写真」の横に、スキーをしたことなどが書いてある。
 
 不自然である。
 
 異様である。
 
 
 
 というわけで、写真を変更した。
 
 これは、昨年、本校のある学年で授業をさせてもらった時のスナップである。
 
 昨年度まで、年間数百時間、授業をしていた。
 
 しかし、本年度の授業は、おそらくこの1時間だけであろう。
 
 ある意味、貴重なスナップである。(授業をさせてもらった学年の若い先生が撮ってくれていた。感謝、感謝である)
 
 
 
 今日から、このブログを読む方は、「この人、きっと、先生なんだな」とわかってくれるであろう。
 
 しかし、この姿は「一年に一回の姿」である。
 
 ほとんどは、職員室で、書類かパソコンに向かって、格闘しているのである。
 
 このブログを読む人のためだけでなく、自分の原点を日々確認するために、授業をしている自分の写真を貼ることにした。
 
 
 
 長年の懸案事項が一つ解決できて、少し、ほっとしている。

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2008年1月14日 (月)

成人の日の思う

 
 成人の日である。
 
 今日は、8年前に担任した卒業生の成人式である。
 
 先日、その子たちは、同級会をした。
 
 教え子が成人、つまり大人になった今、学校生活をどう感じているか、知りたいものである。
 
 「覚えていない」かもしれない。
 
 「苦い思い出がある」かもしれない。
 
 「つらかった」かもしれない。
                                       
 どんな感想でもよい。
 
 「近藤級」という生活空間に、それぞれの子どもが、どんな情景、印象をもっているのかを、知ってみたい。
 
 もちろん、出会った時の近藤が、20代か、30代か、40代かで、かなり印象が違うであろう。
 
 それも、おもしろいと思う。
 
 
 
 今日の成人式で、教え子たちは、昔話に花を咲かせるのであろう。
 
 大いに結構だ。
 
 その話題の中に、少しでも、近藤の担任した時期の出来事があれば、近藤としては、無上の喜びである。
 
 
 
 がんばれ!新成人!! 

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2008年1月13日 (日)

ロードレース大会に参加して

 
 本校を使って、区のロードレース大会があった。
 
 早朝、6時過ぎに、学校を開ける。
 
 6時30分には、準備が始まる。
 
 もちろん、まだ、真っ暗である。
 
 
 
 この大会には、本校の子どもたちも、たくさん出場する。
 
 会場を提供するだけではつまらないので、若い先生と一緒に、近藤もエントリーした。(とはいっても、距離の一番短い「ファミリーコース」、3kmである)
 
 子どもたちと一緒に、楽しく走ることができた。
 
 
 
 先日の神奈川新聞に、「はまっ子の体力低下」という記事が大きく掲載されていた。
 
 横浜市の小・中学生の体力テストの結果が、ほとんどの種目で全国平均よりも劣っていたという記事である。
 
 1月下旬頃に告示される改訂学習指導要領では、体育の時間数が増える。
 
 これも、もちろん、全国的な子どもの体力低下傾向をふまえての改訂である。
 
 しかし、「体力低下傾向」を、学校の体育の時間だけで解決をしようとしても、無理である。
 
 これは、以前から、近藤が主張していることだ。
 
 では、どうするか。
 
 
 
 例えば、今日のような地域のロードレース大会。
 
 こういった地域スポーツや地域の体育的行事と連携するという方法も、解決方法の一つである。
 
 つまり、今日のような地域のスポーツ大会と、学校の教育活動を連動させるのである。
 
 この時期に合わせて、学校のマラソン大会を設定する。さらに、走るコースもロードレース大会と同じにする。冬休みに、希望者を募って、ロードレース大会用の学習を組む…。
 
 いろいろできそうである。
 
 特色ある学校づくりのため、こういった地域のイベントを学校教育に生かす発想も、これからは必要になってくるであろう。
 
 
 
 区役所はじめとする地域の体育協会、体育指導委員の方々、交通安全協会、交通安全母の会、青少年指導員の方々、子供会、そして警察署等々、今日は、早朝より、本当にありがとうございました。
 
 第19回の大会を、楽しみにしています。

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2008年1月12日 (土)

ささやかな道具

 今年の年賀状のやりとりも、そろそろ終了である。
 
 
 「ブログ、読んでいるよ」

 「ブログを見ているので、久しぶりのような気がしません」
 
 「ブログ、ひそかに、チェックしています」
 
 年賀状に、このような、ブログネタのコメントをいただくことが多い。
 
 
 
 先日、職員室で、電話をとった。
 
 「○○○教育委員会の○○課の○○ですが…、」
 
 役職的に、近藤より、ずっとえらい方だった。
 
 当然、近藤とは、面識のない方だ。
 
 電話の用件は、あることに関しての簡単な確認だった。
 
 普通に対応した。
 
 そこまでは、何の変哲もないやりとりだった。
 
 
 
 しかし…、
 
 「副校長先生、ブログ、たまに拝見してますよ。毎日、書かれるのはたいへんでしょう。現場の様子を知るのに役立ってます。…」 
 
 一気に、冷や汗が出た。(比喩ではなく、本当に、汗が出ていた…)
 
 「いや、個人情報にはですね、たいへん気を使っておりまして、いや、十分、守秘義務を守りつつですね、なかなか教育現場というのは…、いやいや、あの、その、そうじゃなくて、うぅ、まったく、お恥ずかしいかぎりで…」
 
 しどろ、もどろ、支離滅裂である。
 
 
 
 あらためて、不特定多数に発信できてしまうIT社会の恐ろしさを実感した。
 
 
 
 さらに、ブログというのは、こちらの情報を発信するだけでなく、受け手の情報がわかるのも、おもしろい。
 
 それが、「アクセス解析」という機能である。
 
 このブログは、毎日、約50人以上のアクセスをいただいている。(多い時は、100人を超えることもある。ありがたや、ありがたや…)
 
 しかし、30人台まで減った日が、この3ヶ月の間に、3日間だけあった。
 
 12月24日、1月1日、1月2日である。
 
 つまり、クリスマスイブと正月2日間は、アクセスが、激減したということだ。
 
 クリスマスや正月は、家族や恋人と大切な時間を過ごしたり、友達とパーティーしたり親戚と酒宴をするなど、非日常の過ごし方をしている方が、このブログの読者には、多いということなのだ。
 
 きわめて、健全だと思う。
 
 そして、その方々の生活が、通常のリズムに戻ると、
「近藤のブログでもチェックして、暇つぶしするか…」
となり、アクセス数が増えるというわけだ。
 
 ほらね。
 
 受信者のライフスタイルが、見えてくるでしょ。
 
 おもしろいことである。
 
 
 
 年賀状も、ブログも、メールも、電話も、あなたと近藤を結ぶささやかな道具である。
 
 このささやかな道具を上手に使って、あなたと近藤の人生が豊かになることを願って、近藤は、日々、駄文をアップしているのである。
 

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2008年1月11日 (金)

教頭会研究大会に参加して

 
 午後、出張。
 
 県の教頭会研究大会参加のため、茅ヶ崎市へ。
 
 参加した分科会のテーマは、
「支援教育の充実のために~関係機関の連携の在り方を探る~」
 
 おきまりの提案のあと、小グループでグループ討議。
 
 なぜか、名簿の右に「司会」と書いてあり、6名ほどのグループの司会をさせていただいた。
 
 神奈川県下のさまざまな地域からあつまっている教頭先生方が、それぞれの地域、学校の実情について語る。
 
 「箱根」「海老名」「鎌倉」「葉山」「川崎」そして「横浜」…。
 
 さまざまな地域で、さまざまな特別支援教育へのサポート制度がある。
 
 いろいろな情報交換ができて、楽しかった。
 
 
 
 本校の事例。
 
 家庭への支援が必要な子どもがいる。Aさんとしよう。
 
 学校が支援できるのは、あくまでも学校でのAさんである。
 
 家庭にまで、なかなか入っていけないのが、現状である。
 
 そこで、児童相談所というところが、家庭に必要な支援をする。
 
 しかし、そういう家庭が多くなったせいか、十分に支援できない状態が続いた。
 
 Aさんについても、児童相談所が、家庭に支援できないことが多かった。
 
 しかし、この秋ぐらいから、児童相談所の職員以外の方が、その仕事をサポートするシステムが稼働し始めた(らしい)。
 
 Aさん担当に、Bさんという女性がなった。
 
 すると、足繁く、Aさんの家へ家庭訪問したり、学校への情報提供をしたりしてくださるようになった。
 
 すると、Aさんの生活に、落ち着きが戻る。
 
 Aさんの表情が、やわらぐ。
 
 今後、また、落ち着かない時期が来るであろう。
 
 しかし、それをわかったうえで、それでも、現在の「前より改善された状況」を、すなおに喜びたい。
 
 
 
 話をもどそう。
 
 今日の研修のテーマは、「支援教育の充実のために~関係機関の連携の在り方を探る~」であった。
 
 「支援教育の充実のために」、さまざまな「関係機関」は尽力をしている。
 
 行政は、財政難である。
 
 厳しい財政の中でやりくりしたり、効率的なシステムを工夫したりしている。
 
 それを、本当に子どものために機能させる仕事、これがわれわれの仕事の一つなのであろう。
 
 どんなにお金をつぎ込んでも、よいシステムをつくっても、現場の学校でそれを本当に子どものために使いこなせなければ、意味がない。
 
 「関連機関」が、本当に「支援教育の充実のために」なるためには、管理職が重要な役割を担う。
 
 Aさんは、関連機関と学校が連携し、子どもがよくなった具体例なのである。
 
 こういった事実を、一つひとつ、積み重ねていくこと。
 
 これが、現場にいるわれわれの大きな仕事なのだと思う。
 
 
 
 今日の研修会に出て、ふと、Aさんの笑顔を思い出し、微かな充実感を感じた。
 
 
 
 あれ?
 
 これって、ちょっと、自慢ですかね?

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2008年1月10日 (木)

教師の日常

 今日、手紙を送った。
 
 それは、8年前、12歳だった子どもたちが「大人になった自分へ」というテーマで書いた手紙だ。
 
 
 
 平成11年度、近藤は、6年生の担任だった。
 
 卒業式の前日、最後の授業で、「大人になった自分へ」という手紙を書かせた。
 
 そして、
「みんなが、大人(20歳)になったら、この手紙お送ります」
と、話した。
 
 その手紙は、「平成20年1月送付」と書いた大きな封筒に入れた。
 
 それを、今日(平成20年1月10日の早朝)、送ったのだ。
 
 だれが、どんな内容を書いたのかは、まったく知らない。
 
 自分で住所を書かせ、自分で封をさせたからだ。
 
 近藤は、それを、8年間預かり、今日、ポストに入れただけだ。
 
 だれが、何を書いていようが、近藤が知らなくても、まったく問題ない。
 
 だって、(昔の)「自分」から(未来の)「自分」への手紙なのだから。
 
 
 
 その子どもたちは、すでに、昨年11月、クラス会をしている。
 
 大いに盛り上がったそうである。(近藤も、よばれていたが、恥ずかしながら体調不調で参加できなかった。残念無念である)
 
 幹事をしてくれた子ども(「子ども」などと書いては失礼である。現在は、20歳を過ぎた大人である。でも、近藤から見ると、いつまでも「子ども」である。)から、当日の写真が送られてきた。
 
 うれしいかぎりである。
 
 これが「教師冥利に尽きる」ということなのだろう。
 
 
 
 今日、職員会議で、子どものことで、涙を流した若い先生がいた。
 
 胸が熱くなった。
 
 こういった若い先生がいることを、近藤は、誇りに思う。
 
 誠心誠意子どもに尽くして、それでも「人を育てることの難しさ」を実感し、そして、わずかな子どもの成長に喜びを感じる。
 
 心の底から、そういった感覚をもっている人は、教師としての資質があると、近藤は、思う。
 
 
 
 敢えて、書く。
 
 教師のやりがいとは、100の挫折と1つの自己満足なのである。
 
 
 
 若い教師の涙は「100の挫折」の一つの具体例であり、卒業してから8年後に出した近藤の手紙は「1つの自己満足」の具体例である。
 
 こういった営みの繰り返しが、「教師の日常」なのだ。
 
 
 
 と、ここまで書いて、反省する。
 
 あぁ、書いてちゃったよ。
 
 また、抽象的な大言壮語で、意味不明の文章を書いてしまった。(これも100の挫折の一つ??)
 
 しかし、ここに書いたことは、現在の、近藤の、実感なのである。
 

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2008年1月 9日 (水)

日々の実践こそが「研究」である

 「落ち着きのない子ども」への対応について、ある先生から、相談を受けた。
 
 
 
 「落ち着きのない子ども」は、どの学校にもいる。
 
 しかし、「落ち着きのなさ」の具体的な内容(席に着いていることができない、おしゃべりをする、友だちにちょっかいを出す…)は、千差万別、百人百様である。
 
 だからこそ、その状況を、的確に把握しなくてはならない。
 
 
 
 近藤が、話したことは、2点。
 
 まずは、「当面の対応」。
 
 その子どもは、現在の状況だと、友だちに危害を加える可能性があるので、それを未然に防ぐ対応をすること。(これについては、その先生も、具体的に対応策を考えていた)
 
 そして、「根本解決への対応」。
 
 「なぜ、その子どもは、そのような(望ましくない)状態なのか」の原因を特定するための情報を収集すること。
 
 具体的には、スクールカウンセラーの先生にその子どもの状態を見ていただき、専門的な見地から助言をいただくこと。
 さらに、「そのような(望ましくない)状態」が起こったときの事実を記録し、蓄積していくこと。
 
 それらによって、その子どもの望ましくない行動の原因を予測し、次の対応を検討し、実践することが必要だ。
 
 
 
 例えば、原因が本人のパーソナリティーに関わることなら、さらに専門機関(医療機関も含めた)と連携する必要があるかもしれない。
 
 家庭環境に課題があると考えることができるなら、家庭での子どもへの接し方等について、具体的に保護者に情報提供し、改善を図る努力をしてもらうことになる。
 
 学校の人間関係が原因と考えることができるならば、その子どもだけでなく、集団への指導が必要となろう。
 
 学習への不安が原因と判断できるなら、学習へのサポートの指導体制を組むことが必要かもしれない。
 
 さらには、複合的な要因である場合は、それぞれの要因とそのかかわりについて、総合的に検討する必要がある。
 
 
 
 これら、一連の取組は、「課題把握→目標(仮説)設定→実践(問題解決)→自己評価」というサイクルであり、問題解決の過程であり、マネジメントサイクルと呼ばれるサイクルである。
 
 
 
 「研究」というと、「授業研究」とか「研究発表会」という行為を思い浮かべる場合が多いかもしれない。
 
 マネジメントサイクルというと、Plan→Do→See(check・Action)という言葉が思い浮かぶ方も多いと思う。 
 
 しかし、このように、日常的な問題解決行動こそが、「研究」であり、教育的な「マネジメント」なのである。
 
 
 
 そう考えると、「研究」に値するテーマは、身の回りにたくさんあることが、わかる。
 
 「どうして、○○さんは繰り下がりの引き算ができないのだろう」
 「なぜ、□□さんは言うことをきいてくれないのだろう」
 「△△さんに学習の習慣を付けるには、どうすればよいのだろう」…
 
 これら、きわめて身近で具体的で、現実的な問題こそが、「研究」に値することであり、解決すべき「問題」なのである。
 
 
 
 日々の実践こそが、「研究」活動である。
 
 これは、以前から、近藤の考えていることである。 
 
 だからこそ、近藤は、「研究」が好きなのである

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2008年1月 8日 (火)

教えてほしいこと

 昨日のブログに、コメントがついた。
 
 「千葉県の大学に通う、教師志望の三年の学生」さんからだ。
 
 
 
 昨日、大学の授業で、近藤のテレビ放映を見たそうである。
 
 テレビが放映されて、すでに1年以上経つ。
 
 そのおかげで、こうやって、いまだに、さまざまな方々とつながりをもてることは、幸せである。
 
 
 
 しかし、映像というのは、こわい。
 
 番組だけ見ると、「よい先生」のように見えてしまう。
 
 とんでもない。
 
 近藤は、「『よい先生』をめざしている、力のない一教師」にすぎない。(副校長になった現在でも、そう思っている)
 
 だから、つながりをもつことのできた先生方から、近藤も学びたいと思っている。
 
 いっしょに手を取り合って、一人でも多くの子どもの笑顔をつくりたいと、思っている。
 
 
 
 もし、コメントをいただいた「千葉県の大学に通う、教師志望の三年の学生」さんが、このブログを読んでいたら、ぜひとも、教えてほしい。
 
 どの大学の、何という先生が、何という講義の中で、どのように、近藤の番組を使っていたのかを…。
 
 近藤の番組を通じて、何を学生さんに伝えようとしていたのかを…。
 
 そして、もしよかったら、その先生に、「近藤にコメントしたらブログにリアクションが返ってきた」と伝えてみてほしい。
 
 そこから、新たな学びが始まるかもしれない。
 
 
 
 「学び」とは「かかわり」なのだと、あらためて感じる、近藤である。
 
 

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2008年1月 7日 (月)

ハイタッチ

 学校が始まった。
 
 子どもたちが、登校してくる。 
 
 新年を迎えたせいか、子どもたちの顔が、新たな希望に満ちあふれて見える。
 
 
 
 今日は、4時間授業で、給食はない。
 
 12時過ぎに下校である。
 
 近藤は、出張で、12時過ぎに学校に戻る。
 
 下校途中の子どもに、出会う。
 
 
 
 「副校長先生、さようなら!!」
 
 バスを降りると、名前のわからない子どもから、いきなりハイタッチされる。
 
 悪い気分では、ない。
 
 しかし、名前がわからなかったので、職員室で、調べる。
 
 
 
 副校長冥利に尽きる瞬間である。
 
 着任してから、9ヶ月、やっと「あの人は副校長先生だ」と認識してくれる子どもが増えてきたということである。
 
 近藤は、その子どもに対して、具体的に、何をしたわけではない。
 
 でも、その子どもは、「うちの学校の副校長先生だ」と認識した上で、安心して、ハイタッチをしてくるのだ。
 
 このうれしさ。
 
 
 
 新年、最高の、近藤にとってのお年玉となった。
 
 
 
 今年も、微力ながら、本校の子どもたち、そして先生方のために、できることを精一杯やっていこう。
 
 素直に、そう思える出来事であった。 

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2008年1月 6日 (日)

OB会

 大学のOB会があった。
 
 上越教育大学卒業で、横浜市に勤めているOG・OBが集まったのだ。
 
 同じ市内に勤めていても、こういう機会がなければ、なかなか会う機会がない。
 
 企画をしてくれたTさんに感謝したい。
 
 
 
 さらに、Tさんは、スペシャルゲストを招待していた。
 
 開校当時から大学近辺で飲食店を経営しているNさんをよんだのだ。
 
 Nさんは、この会のために、わざわざ上越から来浜してくれたのである。
 
 超サプライズであった。
 
 
 
 会は、大いに盛り上がった。
 
 近藤は、2期生なので、一番、古株である。(他に、同期が2名いる)
 
 Nさんがもってきてくれた「雪中梅」を飲みながら、昔話に花が咲く。
 
 しかし、同じ昔話でも、近藤たちの昔話は「昭和時代」の昔話である。
 
 一番若い卒業生は、「平成15年度卒」である。
 
 昔話のレベルが違うのである。
 
 というわけで、おじさんにありがちな「昔は、あーだった、こーだった」話になる。(とても、反省している…。K夫妻、ごめんなさい…。)
 
 
 
 近藤は、大学を卒業してから、ほとんど大学に行っていない。
 
 だから、近藤の記憶にある「大学の風景」は、「昭和時代」で止まっているのだ。
 
 変わってしまった「大学の風景」を見たい気持ちもあるが、見たくない気持ちもある。
 
 
 
 野球部だった後輩が、こんな話をしてくれた。
 
 「自分がバッティング練習の時、すごく調子がよい時があった。その時、自分は『近藤さん、見てくれているかな』と思って、先輩の方を見たら、電話がかかってきて、校舎の方に戻っていってしまった。(携帯電話などなかった時代である)その時の悔しさ、今でも、覚えています。」
 
 その後輩は、きっと近藤に、調子のよかった自分を見てもらい、認めてもらいたかったのだ。
 
 その思いを、20年以上も、持ち続けていたのである。
 
 近藤にしてみれば、まったく、記憶にないことなのである。
 
 ここでは、先輩と後輩の出来事であるが、こういったことは、教師と子どもの間で、ありがちなことである。
 
 この仕事の怖さが、ここにある。
 
 
 
 近藤は、近くに勤めている仲間たちと出会い、いろいろなことを感じた。
 
 そして、幸せな気持ちになった。
 
 こういった仲間を大切にしたいと思った。
 
 「かかわりあうことの喜び」は、近藤にとって、エネルギー源の一つなのだということを、再確認できた、楽しいひとときであった。

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2008年1月 5日 (土)

子どもの悪徳

 子どもが、うそをつく。
 
 親や教師が、詰問する。
 
 本人は、「うそをついていない」と言う。
 
 親や教師は、子どもの言葉を信じる。
 
 子どもの言葉を信じた上で、必要な指導をする。
 
 このようなことは、教育現場に、多くある。
 
 
 
 「学校は警察ではない」

 「学校は裁判所ではない」
 
 よく言われる言葉である。
 
 
 
 しかし…、と思うこともある。
 
 もし、うそをつきとおして、それですんでしまったら、その子どもは
「うそは、つきとおしてしまえばよいのだ」ということを、学ぶ。
「うそをついても、『うそをついていない』と言い続ければよい」ということを、学ぶ。
 
 実際、そういう学習をしてきたと思われる大人を見たこともある。
 
 
 
 そんな思いをもってきたので、近藤は、多くの場面で、「子どもに本当のことを言わせる裏技」を、いろいろ工夫してきた。
 
 そして、多くの子どもは、「正直でいたい」という素直な心をもっているのだと言うことも、実感してきた。
 
 
 
 だからこそ、思うのである。
 
 子どもの悪徳を、簡単に、見過ごすべきではないと。
 
 石川達三作「人間の壁」から、引用する。
 
「子供は純真なものだと、普通には思われているらしい。しかし子供を教えている先生の眼から見ると、なかなかそれだけのものではない。案外子供はうそつきで、悪知恵があり、競争心、嫉妬心、貪欲、欺瞞、阿諛、威嚇、大人のもっている悪徳は、ことごとくその萌芽をもっているのだ。」(石川達三『人間の壁(上)』(新潮文庫 昭和36年)p6)
 
 
 
 子どもは信頼すべきであって、信用すべきではないのだ。
 
 夢のないような話で申し訳ない。
 
 だが、これは、教育最前線の現場で仕事をする者の、実感である。 

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2008年1月 4日 (金)

情報の「鮮度」

 
 毎日、ブログを更新する。
 
 結構、エネルギーがいる。
 
 だから、余裕のある時に、書きためておいて、書けない日は、それを更新しようとしたこともある。
 
 
 
 しかし、ダメだった。
 
 「鮮度」が、落ちているのである。
 
 どんなにくだらないことであっても、その時、書いたものは「新鮮」である。
 
 文章に勢いがあり、「鮮度」がよい。
 
 やはり、情報は、「ナマ」に限る。
 
 ブログも情報の一つなので、「鮮度」のよいものの方が、より、読む方々に価値のある情報となる。
 
 
 
 なので、今日のような、くだらないテーマでうだうだ書いていても、「新鮮」ということで、許してもらいたい。
 
 
 
 あー、初出勤で、俺、疲れてんなぁー…。
 

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2008年1月 3日 (木)

教育における「画期的方法」

 「○○式学習法」
 「○○型国語」
 「○○小メソッド」…
 
 こういうネーミングの書物が目につく。
 
 魅力的である。
 
 日々の授業に悩む教師にとって、非常に、魅力的なネーミングである。
 
 最新の方法が、自分の悩みを一気に解決してくれるような気持ちになる。
 
 近藤も、こういった本を多く購入した。
 
 それなりに勉強になるものが多い。
 
 しかし、どうも、最近、食傷気味である。

 引用する。

 「本にも書いたが、教育上の真理はわかってみれば当たり前のものである。今この時点に教師という職で生活している人は200万人弱もいる。(中略)現在の公教育制度が成立してから約100年経っており、その間の教師の人数は膨大である。それらの方々が、毎日、毎日、よい教育とは何かと考えている。当然、その中の多くの教師が『正しい』事に気づいているはずである。筆者は教育に関して正しいことは、誰かがすでに気づいているはずだと確信している。逆に言えば、今まで誰も気づいていないことは、『正しくない』と確信している。」(西川純『「勉強をしなさい!」を言わない授業』(2006年東洋館出版)p34-35 脚注省略・近藤)
 
 
 
 近藤にも、同じような気持ちがある。(まったく同じではないが…)
 
 多くの先人たちが、知恵を絞ってやってきたこと。
 
 教育条件が激変しない限り、よい方法の多くは、今まで誰かがやってきたことだと思った方がよい。
 
 それを、刺激的なネーミングをすることでまだ知らない人に広めようとする意図は、理解できる。
 
 理解できるが、あまり好きなことではない。(好きなことではないが、近藤も、同じようなことをしたことがあったし、これからも必要であれば、するだろう)
 
 
 
 とにかく、教育における「画期的方法」というものは、眉唾である。
 
 
 
 現状を改善するのは、「画期的方法」ではなく、地道で実直で丁寧な教育への取組であると、近藤は、思っている。

(「じゃあ、『地道で実直で丁寧な教育への取組』って、具体的に、どういうことだ?」という問いには、実践を通して、応えていきたいと思っている。ズバッと言葉にできなくて、ごめんなさい…)
 

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2008年1月 2日 (水)

初・反省

 すごい年賀状をいただいた。
 
 真っ白な年賀状である。
 
 何も書いていない年賀状である。
 
 
 
 住所を書いた筆致から、どなたからの年賀状かは、予想できた。
 
 高名な方である。
 
 近藤の予想。
 
 この方は、おそらく大量の年賀状をお出しになっているのであろう。
 
 大量に印刷し、それに手書きで、一気呵成に住所を書く。裏面など確認しない。
 
 印刷した賀状の中に、「印刷もれ」があり、それが近藤のところに来た、と言うわけだ。
 
 
 
 こう書くと、失礼な年賀状のように思えるが、なぜか、宛名は手書きなのである。
 
 表も裏も「印刷のみ」の年賀状よりも、手間がかかっている。
 
 だから、好感がもてる。
 
 心がこもっているのか、こもっていないのか、わからない年賀状である。
 
 
 
 今年、近藤は、メール年賀状を送らなかった。
 
 時間的な余裕がなかったからだ。
 
 なので、ブログを読んでいただいている方には、ブログが年賀状代わりだと思ってほしい。
 
 
 
 なんてことはない。
 
 近藤が一番、手抜きをしている。
 
 
 
 今年の「初反省」である。

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2008年1月 1日 (火)

ブロクマニュフェスト

 
 あけましておめでとうござます。
 
 まずは、昨年の元旦のブログから。

 あけましておめでとうございます

 2007年になりました。

 今年は、激動の年になりそうです。

 ブログをはじめて約16ヶ月。
 はじめの4ヶ月、アップした日は、たったの6日。アップ率、約5%。
 2006年、アップした日が29日。アップ率、約8%。

 そこで、新年の決意。
 今年は、年間40日のアップを目指します。およそ、週一回更新。アップ率、約11%。

 これが、2007年、近藤の「ブログマニフェスト」です。

 そういうわけで、本年もご贔屓に…。
 
 
 
 昨年のアップ率を振り返る。
 
 更新日、年間327日、アップ率89.3%
 
 見事、ブログマニュフェスト達成である。
 
 しかも、目標を287日も大幅にオーバーしている。
 
 「十分満足」状態である。できすぎの感がある。
 
 
 
 そこで、今年のブログマニュフェスト。
 
 数値的には、今年を下回らないこと。
 
 年間329日以上の更新、アップ率90%以上をめざします。
 
  
 
 さらに、量を減らさないで、質の向上を図りたい。
 
 自分の経験から、より質の高いテーマについて、掘り下げて考えること。
 
 自分の経験を通じて、より広いテーマを取り上げること。
 
 自分の経験から、より笑えるネタを探すこと。
 
 そして、それらをわかりやすい、自分なりの言葉で伝えること…。 
 
 
 
 そういうわけで、本年もよろしくお願いいたします。

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