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2007年11月30日 (金)

学力テストの結果分析

 全国学力テストの分析をしている。
 
 貴重なデータである。
 
 分析をすると、いろいろとおもしろい結果が出る。
 
 
 
 数字で表すと、わかりやすい。
 
 しかし、数字の解釈は、多様である。
 
 だから、分析が必要なのだ。
 
 
 
 加えて言うなら、世の中の、大切なことは、数字で「明確に」表すことが、難しいことが多い(ということに、最近気がついた)。
 
 
 
 しかし、新自由主義的な発想では、「数字で表す」「具体的な行動目標を明記する」「客観的なデータで成果を測る」ということは、大切なポイントである。
 
 
 
 だからこそ、「分析の能力」が問われるのだ。
 
 
 
 そして、もっと大切なのは、分析後の取組である。
 
 
 
 というわけで、学力テストの分析、乞うご期待である。

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2007年11月29日 (木)

すごい場面に遭遇した

 久しぶりに、すごい場面に遭遇することができた。
 
 
 
 最近は、さまざまなニーズがあって、子どもと接する機会が増えている。
 
 うれしい限りである。
 
 今日は、1時間目、ある学年の算数のサポートに入り、2時間目は個別支援のお手伝いをさせてもらい、お昼はお休みの先生のクラスの給食指導をさせてもらった。

 
 
 そこで、すごい場面に遭遇した。
 
 Aさんは、繰り上がりのあるたし算のプリントをしていた。
 
 18+24とか、39+4とか、そういった計算である。
 
 はじめは、一の位の数どうしを、指を折って数えて、答えを求めていた。
 
 すると、6+4というたし算(一桁どうしのたし算である)をしたとき、「これは、こっち(6)の1をこっち(4)に動かすと、5+5になるから、すぐ10ってわかる」とつぶやいた。
 
 近藤は、「おぉ!」っと思い、式に、小さく、それを書いた。
 
 すると、それからの問題を、次々に「8=5+3」のように、5と○に分けて、指を使わず、計算し始めたのである。
 
 
 
 具体思考から、抽象思考に、一歩踏み出した瞬間である。
 
 近藤は、思わずうなり、「すごい発見だ」と言った。
 
 すると、Aさんは、近くにいる人に次々そのやり方を説明し始めたのである。
 
 
 
 おそらく、ここまでの話は、わかりにくかったと思う。(わかりやすく説明しようとすると、かなり読みにくい文章になってしまうので、端折ったからね)
 
 
 
 近藤が、「すごい場面に遭遇した」と感じたのは、「学び」の瞬間を共有できた喜びなのである。
 
 みるみるできるようになる。
 わかったことに、感動を覚える。
 それも、それまで、算数が得意でないと思える子どもが、得意がっている子どもを遙かに超える「発見」をするのである。
 
 
 
 これを、感動といわずして、何と表現すればよいのか。
 
 
 
 「学び」の瞬間を共有できること。「成長の姿」に感動できること。
 
 それが、この仕事の醍醐味であり、難しさであり、やりがいであると、あらためて、感じさせてもらった。
 
 
 
 Aさん、どうもありがとう。

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2007年11月27日 (火)

先人のこだわりに学ぶ

 黒板の消し方、知っていますか。
 
 画鋲の止め方、知っていますか。
 
 教室に入る足は、右足ですか、左足ですか。知っていますか。
 
 
 
 近藤が、初任の時に、教えてもらったことである。
 
 
 
 枝葉末節なことである。
 
 
 
 黒板は、ぞうきんで消しても、立てに消しても、横に消しても、斜めに消しても、どうということは、ない。
 
 画鋲をどこの位置で止めようと、どの角度で止めようと、何カ所止めようと、どうということは、ない。
 
 教室に、右足で入ろうと、左足で入ろうと、どうということは、ない。
 
 
 
 しかし、今日の、研修の講師の資料には、その解答が、理由とともに、書いてあった。
 
 うれしかった。
 
 
 
 若い先生に学んでほしいのは、その「精神」である。(わっ!!また、やっちゃった。おれの大嫌いな「精神論」だ。あとは、読みたい人だけ読んでください。ごめんね)
 
 
 
 黒板の消し方に解答があるのは、「どうやって消した方が『子どものためになるのか』を真剣に考えていた先人がいた」ということの証なのである。
 
 画鋲の止め方に解答があるのは、「どうやって止めた方が『子どものためになるのか』を真剣に考えていた先人がいた」ということの証なのである。
 
 教室に入る足に解答があるのは、「どちらの足で入った方が『子どものためになるのか』を真剣に考えていた先人がいた」ということの証なのである。
 
 
 
 この「精神」を学びたい。(少なくとも、近藤は)
 
 
 
 God is in detail.(神は細部に宿りたもう)なのである。

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2007年11月26日 (月)

現在、修行中

 
 現在、修行中、である。
 
 
 
 おかげさまで、最近、子どもと直接かかわる機会が増えてきた。
 
 しかし、そこで、悩む。
 
 
 
 昨年までなら、「担任」もしくは「他の先生」という関係で、子どもたちと接していたし、そういった関係性でのかかわり方には、なれている。
 
 しかし、今は、「副校長先生」として(つまり担任でも、隣のクラスの先生でも、ないのだ)、子どもとかかわっている。
 
 
 
 そこで、悩む。
 
 
 
 例えば、子どもが、ある行為をした。
 
 「自分だったら、こう指導する」というイメージがある。
 
 しかし、それは、「近藤が担任」という文脈の中での、イメージである。
 
 担任は、別の先生なのである。
 
 と、すると、その子どもに「自分だったら、こう指導する」という、その方法は、果たして「よい指導」なのか。
 
 悩む。
 
 
 
 副校長として、現在修行中の、近藤である。

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2007年11月25日 (日)

ハンコ

 
 副校長になって、一日目のこと。
 
 印鑑を忘れた。
 
 仕事にならなかった。
 
 
 
 この仕事、ハンコを押すことが多い。
 
 さまざまな文書に目を通し、確認や承認のハンコを押す。
 
   
 
 外国には、「ハンコを押す」という文化はないと、聴いたことがある。
 
 ハンコの代わりに、サインをする。
 
 たしかに、その方が、合理的であると思う。
 
 
 
 しかし、文化というのは、「合理的かどうか」ではない。
 
 ハンコも、その一つである。
 
 
 
 名刺交換、お辞儀、ハンコ…。
 
 管理職というのは、日本的な社交文化を学べる楽しい仕事なのです…。

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2007年11月24日 (土)

貴重なコメント

 
 「近藤先生、これからもぶれない教育の見本を見せください。」

 こんなコメントをいただいた。
 
 身に余るお言葉であるが、この方は、誤解をしている。
 
 
 
 近藤は、「ぶれない教育」など、まったくできていなかったし、今も、できていない。(最近、子どもと直接かかわる場面が増えて、とくに、それを実感する)
 
 だから、「見本」など、見せることができるはずも、ない。
 
 未熟で、非力な教師なのである。
 
 
 
 ただし、「よい教師とは」「よい学校とは」「よい教育とは」どのようなものかについて、考え続けてはいる。 
 
 真摯に、考え続け、悩み続け、そして現場で決断して、行動して、また、考え続け、悩み続ける。
 
 その営みの一端を、このブログで発信している。
 
 近藤ができることは、そういうことである。
 
 
 
 だから、「よい教師をめざして」「よい学校をめざして」「よい教育をめざして」真剣に考えている方と、いっしょに考えたい。悩みたい。
 
 それこそ、このブログを書いている(近藤にとっての)大きな意味の一つである。
 
 
 
 貴重なコメントを、ありがとうございました。
 

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2007年11月22日 (木)

どんなに眠くても、書こうと思ったこと

 
 「これは、許せないことだ。」と、思った時、あなたなら、どうするだろうか。
 
 
 
 法律にふれなくても、「これは、許せないことだ。」と思う事柄は、いくらでもあるはずだ。
 
 
 
 法律そのものだって、変わることがありえるのだから、「これは、許せないことだ。」というのは、その人、その人の、感覚の問題なのである。
 
 
 
 一昔前まで、それは、ある程度、同じ社会に生活していれば、共有できていた(ように思う)。
 
 いや、「共有できていたように(思う)。」という感覚も、自分の生きていた時代によりけりなので、「一昔前まで」などと、限定はできない。
 
 
 
 「これは、許せないことだ。」と、判断する難しさ。
 
 判断した後、どのような行動に出ればよいのかという難しさ。
 
 
 
 現場の先生は、常に、この文化的、自己的問題と向き合っているのである。(わけわからん言葉を使ってしまった。申し訳ない) 
 
 
 
 具体例を挙げようとすれば、いくらでも、挙がる。
 
 でも、今日は、やめておく。
 
 
 
 なぜなら、近藤は、眠いからである。
 
 どんなに、眠くても、これだけは、イメージが鮮烈なうちに、書こうと思ったので、書きました。
 
 では、おやすみなさい。
 

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2007年11月21日 (水)

研修を終えて

 
 研修だった。
 
 開始時間は、18:00。
 
 
 
 教員の世界では、よくあることだ。
 
 ちなみに、近藤は、18:00以降の研修は、ここ10年で、今年が一番少ないかもしれない。
 
 教員の時は、帰宅が、12:00を過ぎることも、よくあったが、副校長になって、若干、少なくなったような気がする。
 
 
 
 今日の、研修内容。
 
 新任副校長研修。
 
 
 
 とても、勉強になった。
 
 「副校長」という仕事に対して、みなさん、それぞれの立場で、配慮しているのを感じた。
 
 なにせ、文部科学省の調査(「勤務実態調査」(平成18年度実施)平成19年5月23日付)でも、「教頭・副校長が各職種の中でもっとも残業時間が長い」と客観的に示されてしまったり、最近の新聞によると(近藤は確認していないが)、降格人事(つまり、副校長が嫌で教員に戻った人)の数が過去最高になったり、とにかく、「副校長先生って、たいへんな仕事」というイメージがあるのは、事実である。(しかも、今日だって、勤務時間外の研修だし…)
 
 
 
 しかし、それが、副校長という仕事なのだと思う。
 
 
                
 だれかが、「黒子」しなくては、事は進まない。
 
 だれかが、「嫌われ」なくてはならない時もある。
 
 だれかが、「汚れ」なくてはならない時もある。  
 
 学校では、それが「副校長」という仕事なのである。(こんな職務は、法律に明記しているわけではない。しかし、「校務を整理」するということは、こういう仕事も含まれていると、近藤は、解釈している)
 
 

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2007年11月20日 (火)

教師冥利に尽きる

 
 1年生の授業サポートにいくことがある。
 
 今日は、「くり下がりのある引き算」の授業だった。
 
 支援の必要な子どもに、マンツーマンで、指導する。
 
 はじめは、「わからない」といっていたAさんが、授業の最後には、プリントを全問正解する。
 
 
 
 心から、「子どもって、すげぇ」と思う。
 
 
 
 これは、「Aさんにとって、サポートが必要だ」という、担任の適切な判断の成果なのだ。 

 もし、担任が、自分だけで何とかしようと、抱え込んでしまったら、Aさんは「くり下がりのある引き算」を理解することができなかったであろう。
 
 これが、チームの力なのである。
 
 
 
 教師は、神様ではない。
 
 すべてを、担任だけで、何とかしようと考えること自体が、不遜なのである。
 
 
 
 その点、若い先生は、そんなことにこだわらないので、よい。
 
 
 
 近藤は、担任をしていた時、「担任だけで、何とかしようと考え」ていたことが、多かったように思う。
 
 
 
 Aさんが、今日、「くり下がりのある引き算」のプリントを全問正解したこと…。
 
 その背景には、若い先生のしなやかな判断と学校としてのチーム力があったのである。
 
 
 
 そんな現場にいる自分を、やはり、「教師冥利に尽きる」と、思うのである。
 

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2007年11月19日 (月)

マスコミへの、率直な感想

 
 先日、TVを見て、改めて、感じた。
 
 07/11/04 16:30前後に放映されたNHKのニュースである。
 
 民主党の小沢代表の辞任会見である。
 
 
 
 小沢氏は、マスコミの報道に対し、憤っていた。
 
 近藤は、小沢氏を政治的に支持しているわけではないが、マスコミの報道に対する憤りは、もっともだと思った。
 
 
 
 「新聞倫理綱領」から、抜粋する。
 
 「品格と節度」
 公共的、文化的使命を果たすべき新聞は、いつでも、どこでも、だれもが、等しく読めるものでなければならない。記事、広告とも表現には品格を保つことが必要である。
 
 
 
 「表現には品格を保つ」が、行動には品格を保たない。
 
 たいへん申し訳ないが、近藤の、マスコミへの率直な感想である。
 
 
 
 マスコミの品格や節度は、その社会のそれに比例するのかもしれない。
 
 このブログだって、ある意味では、「マスコミ」(=大衆への大量的な情報伝達【広辞苑】)なのだろう。
 
 
 
 まず、自らを、律しよう。

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2007年11月18日 (日)

豊かなスポーツライフを実現すること

 
 ジョギングをした。
 
 天気がよく、気持ちよく走ることができた。
 
 
 
 平成19年11月7日、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会は、「教育課程部会におけるこれまでの審議のまとめ」(案)を発表した。
 
 そこに、以下の記述がある。

「⑩ 体育、保健体育
(ⅰ)改善の基本方針
○ 体育科、保健体育科については、その課題を踏まえ、生涯にわたって健康を保持増進し、豊かなスポーツライフを実現することを重視し改善を図る。」
 
 
 
 近藤は、運動が好きである。
 
 草野球もするし、教職員のサッカーチームにも参加している。
 
 時間があれば、今日のように、ジョギングを楽しむ。
 
 近藤が、運動をするのは、楽しいからである。気持ちよいからである。運動をすることに、価値を見いだしているからである。
 
 それが、「生涯にわたって健康を保持増進し、豊かなスポーツライフを実現することを重視」するということであろう。
 
 
 
 多くの子どもたちに、運動することの楽しさを、感じてほしいものである。

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2007年11月17日 (土)

教室は、ドラマの舞台である

 
 教室は、ドラマの舞台である。
 
 
 
 今日は、午前中、教室にいた。(本校は、今日はオープンスクール。土曜参観である)
 
 1年生のサポートなどをしていた。
 
 この仕事を始めてから、職員室にいることが多い。(あたり前である)
 
 久しぶりに、教室にいると、かなり(近藤の)テンションは、あがる。
 
 子どもの一挙手一投足、教師の言動が、自分のアンテナにビビっとひっかかってくるのである。
 
 密度の濃い、時間である。
 
 
 
 あらためて、思う。
 
 教室は、ドラマの舞台である。
 
 
  
 授業が終わってから、保護者と面談している先生がいた。
 
 その先生から、話を聴く。
 
 保護者は、一生懸命である。
 
 教師も、一生懸命である。
 
 もちろん、管理職も一生懸命である。
 
 だから、教室は、学校は、ドラマの舞台に、なる。
 
 
 
 教室は、ドラマの舞台である。
 
 よきドラマの演出者になりたいと思う。
 
 よきドラマの主役は、もちろん、子どもであり、保護者であり、先生である。

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2007年11月16日 (金)

年齢差75歳

 
 今日の5時間目は、1年生の教室にいた。
 
 いろいろな1年生と話をして、とても、楽しかった。
 
 1年生は、6歳か7歳である。
 
 
  
 今、父親と話をした。
 
 父は、82歳になる。
 
 
 
 近藤は、生まれた年が80年違う人間と、ほぼ毎日、時間を共有している。
 
 
       
 毎日、父(82歳)と朝食をともにし、1年生(6歳か7歳)と挨拶を交わす。
 
 
 
 高齢化社会、核家族化が進む現在の日本において、これは、実は、貴重なライフスタイルかもしれない。
 
 
 
 高齢者なら、高齢者だけになりやすい。
 
 核家族は、家族で孤立しやすい。
 
 
 
 そんな世の中で、近藤は、毎日、1年生と挨拶を交わし、82歳の父と顔を合わす。
 
 幸せである。
 
 
 
 不思議なことに、82歳の父と1年生の言動は、似ている。
 
 
 
 人間って、おもしろいと、思う。
 
 この感覚を、大切にしたい。
 

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2007年11月15日 (木)

オープンスクール

 
 横浜では、オープンスクール週間を設けている。

 保護者や地域の方々に、学校での活動を見ていただく週間である。
 
 基本的に、学校は、いつでも参観可能であるのだが、現在では、安全管理上、校門に施錠してあったり、昇降口がしまっていたりしているのが現状だ。
 
 そこで、オープンスクール週間を設け、地域や保護者の方が来校しやすいようにしているのである。
 
 本校は、本日から3日間、オープンスクールである。
 
 
 
 普段の学校の様子を見ていただくことは、学校にとって、非常によいことだ。
 
 子どもも張り切るし、先生方も張り切る。
 
 
 
 学校の様子を見て、さまざまな感想をもつ地域の方や保護者の方がいらっしゃるであろう。
 
 そこで、オープンスクールに合わせて、本校の教育活動について、アンケートをとっている。
 
 地域や保護者からご意見をいただき、それを学校経営に生かすことは、これからの学校に、とくに求められていることだ。
 
 いただいたご意見を謙虚に受けとめ、子どもにとってよりよい学校にすべく、みんなで智恵を出し合いたいと思う。
 
 
 
 学校だけでなく、家庭、地域といっしょに子どもを育てたい。(あたりまえの話だが…)
 
 オープンスクールは、その第一歩なのである。
  

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2007年11月14日 (水)

落ち着いた一日

 
 職員室で、11月7日付けで発表された「教育課程部会におけるこれまでの審議のまとめ」(中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会)を読んでいた。
 
 ある先生が、
「副校長先生、今日は、余裕ですね。いつも、バタバタしている感じなのに…。」
と言う。
 
 
 
 おっしゃるとおりである。
 
 職員室で、落ち着いて、資料や書籍に目を通すことなど、これまでの教員生活で、ほとんど、なかったことだ。
 
 自分自身のその状態(職員室で落ち着いて資料に目を通すとうこと)に、違和感をもっていたので、その職員の言葉が、妙に頭に残った。
 
 担任をしていた時には、考えられない。
 
 学校にいる時は、常に、「右往左往」だった。
 
 落ち着いて、職員室で、本を読むなど、あり得なかった。
 
 だからこそ、休日や夜間に、むさぼるように、読んでいたのかもしれない。
 
 
 
 その後、子どもの対応について、学年の先生と話し合いをする。
 
 先ほど読んだ「教育課程部会におけるこれまでの審議のまとめ」(中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会 2007/11/07付)の言葉と現場の感覚がつながってくる。
 
 
 
 この感覚を、大切にしたい。
 
 近藤は、鼻持ちならないほど鈍感な人間なので、目の前の、具体性のある子どもとのかかわりがなくなった瞬間、「理想論を振りかざす評論家」や「不十分な理論にしがみつく研究者」や「経験論にしがみつくおじさん」に成り下がってしまうのである。
  
 だからこそ、この現場感覚を、自分の宝としたいのだ。
 
 
 
 本を読み、議論をし、ものを書くことは、教師としての力量を高めるために、非常に有益である。
 
 しかし、その大前提は、現場にいること(子どもと直接かかわる場にいること)である。
 
 だからこそ、本や話し合いの言葉が自分の中に入って、血肉になるのである。
 
 
 
 評論家ではなく、プレーヤーを(この期に及んでしつこく)求め続ける、近藤である。

(これは、昨日書いたものです。システム上の問題でアップできなかったので、本日アップしました)

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2007年11月12日 (月)

教師を続けることの難しい時代

 
 前々任校で、同じ学年を組んだ先生と会った。
 
 その先生は、この秋、教師を辞めて、地元に帰る。
 
 
 
 話を聴くと、教師が嫌になったわけではないという。
 
 さまざまな要因が重なった結果、教師を続けることを断念したらしい。
 
 
 
 改めて、「教師を続けることの難しい時代」になったのだと、感じる。
 
 
 
 教師だけが、人生の選択肢ではない。
 
 
 実際、その先生は、教師になって非常に成長したと、近藤は思う。
 
 「たくましく」なったのだ。
 
 それは、財産である。
 
 ぜひ、その財産を生かして、さらに輝いてほしい。
 
 近藤は、応援している。
 
 
 
 教師とは、応援団に徹することなのかもしれない…。

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2007年11月10日 (土)

望ましくない行動への対応

 
 子どもたちは、学校生活の中で、いろいろな行動をする。
 
 教師から見て、望ましくない行動をすることもある。
 
 それへの指導が、とても大切である。
 
 これは、昨日書いたとおりだ。
 
 
 
 あまりに頻繁に、望ましくない行動が起こる場合は、何が本当の原因なのかを分析し、対策を立てなくてはならない。
 
 対処療法には、限界がある。
 
 
 
 望ましくない行動が頻発する集団への、効果的な対応を見つけることは、難しい。
 
 難しいが、効果的な対応の原則はある。
 
 
 
 近藤の経験から、一番効果的だと思う原則は、「授業を楽しくすること」である。
 
 これに尽きる。
 
 
 
 「望ましい人間関係を築くこと」「保護者の理解を得ること」等々、さまざまな原則は考えられるが、どれも一朝一夕にできることではない。
 
 しかし、「授業を楽しくすること」は、前述したような原則に比べ、はるかに即効性があり、努力次第で目に見える改善が図られる可能性が高い。
 
 
 
 しかし、実際は、逆になることが多い。
 
 対処療法(教師にとって望ましくない行動への対応)に労力をとられ、肝心の授業の準備や教材研究がおろそかになるのである。
 
 すると、さらに教師にとって望ましくない行動が増える。
 
 つまり、悪循環である。
 
 これは、気をつけていないと、どこの学校にも起こりうる現象である。

 「授業を楽しくすること」だって、簡単なことではない。
 
 しかし、限りある教師の労力をどこに集中させるかという観点で考えた時、現在の近藤は、「授業を楽しくすること」が一番よい対策方法だと考えている。
 
 
 
 日々の授業を楽しくする。
 
 これは、学習指導の充実のみならず、児童指導上からみても、とても重要なことなのである。
 

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2007年11月 9日 (金)

けんか、火遊び、ピンポンダッシュ

 
 「けんか」「火遊び」「ピンポンダッシュ」「万引き」などなど…。
 
 子どもが、よくする行動である。
 
 
 
「ピンポンダッシュ(これって、業界用語??意味わかりますか?)をしたという子どもがいました」
「他の学校の子どもとけんかをした子どもがいました」
「けんかの指導をしたのに、なかなか○○さんは、謝りません。どうしたら、いいのでしょう。」
などなどなどなど……。
 
 今日も、たくさんの、楽しい報告をいただいた。
 
 
 
 健全である。
 
 こういうことが、起こることは、「健全」である。
 
 したことが、よいと言っているわけではない。
 
 しかし、こういうことは、どの学校でもある。
 
 どの時代でもある。
 
 こういうことが、あたりまえに起こり、それに対して、あたりまえの指導をして、子どもは成長する。
 
 あたりまえに起こっていることはが、わかる本校は、「健全」であると、思う。
 
 
 
 大切なのは、「あたりまえの指導」をすることである。
 
 今日の職員打合せで、
「指導のチャンスととらえましょう。『笑顔で対応、けんか、火遊び、ピンポンダッシュ』と言った。(意味がわからず、ちょっと、職員にはひかれてしまった。しかし、当事者意識のある職員は、苦笑いをしていた)
 
 こういう行動は、指導のチャンスである。
 
 子どもが成長する、チャンスでもある。
 
 そして、教師が成長するチャンスでもある。
 
 
  
 教師は、いっぱいいっぱいで、子どもと、日々格闘している。
 
 若い教師なら、なおさらだ。
 
 子どもの困った行動に直面して、一番悩んでいるのは、その先生方なのである。
 
 
 
 「問題は、発見されれば解決は近い」(高橋誠『問題解決の手法』(日経文庫1984年)p14)
 
 悩んでいる教師は、すでに問題をつかんでいる。
 
 つまり、「解決は近い」のだ。
 
 
 
 日々、現場の具体的で実名性のある問題に対して、がんばっている先生を、サポートしたい。
 
 これが、自分の考える「管理職像」である。
 
 
 

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2007年11月 8日 (木)

コメントをもらって、考えたこと

 
 匿名の方から、コメントをいただいた。
 
 悩める先生からである。
 
 「これだけがんばっても、保護者の理解が得られないのは、やっぱり自分が悪いのでしょうか」
 
 安易な感想を書くことのできない、切実な、叫びである。
 
 
 
 保護者から、コメントをいただくことがある。
 
 教師に対する不満が語られることもある。
 
 胸が痛む。しかし、もっともだと思うことも、多い。

 母となった教え子から、コメントをもらうこともある。
 
 やはり、子育てに悩んでいる。
 
 保護者同士の関係に、悩んでいる。
 
 
 
 子どものことを、真剣に考えるから、悩むこともある。
 
 子どものことを、真剣に考えるから、対立することもある。
 
 悩める教師は、よい教師だと、近藤は思う。
 
 悩める保護者は、よい保護者だと、近藤は思う。
 
 
 
 どんなに悩み、苦しんでも、
「子どもの笑顔」がそれを癒してくれる。
 
 だからこそ、子育ては楽しく、教育はやりがいある仕事なのであろう。
 
 
 
 抜け出ることができないトンネルはない。
 
 大きな課題は、自分を成長させてくれる。

 悩める教師、悩める保護者の皆さん、
「子どもの笑顔」のため、知恵を出し合いましょう。
 
 

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2007年11月 7日 (水)

今の自分の仕事

 
 副校長として、子どもを指導したり、授業をしたり、補欠に入ったり(休みや出張の先生の代わりをすることを、業界用語で「補欠に入る」という)することがある。
 
 そこで、感じることがある。
 
 「俺が、担任だったら…」
という思いである。
 
 
 
 「自分が担任だったら、こんなに、この子どもたちを育てることはできなかっただろうなぁ…」
 
 こんな思いをもつことが、ある。
 
 例えば、今日、3年生が、音楽会に参加するので、全校児童の前でリコーダーや歌声を披露した。
 
 すばらしかった。
 
 近藤が、指導したら、「絶対に(ここだけは、確信をもって書く)」、あのように子どもを育てることは、できなかっただろう。
 
 音楽専科の先生、担任の先生方に、感謝の気持ちでいっぱいである。
 
 
 
 逆の場合もある。
 
 「自分が担任だったら、こうやって、子どもを育てるのに…」
 
 しかし、ここが、難しい。
 
 担任ならば、指導の手だてと望ましい子どもに育てるまでの時間が、おおよそ、見通すことができる。
 
 しかし、今の近藤は、「担任」では、ない。
 
 今の近藤は、学校の「副校長」として、どうすれば、「子どもが育つ、力をつける」ことができるのかを、日々、考えている。
 
 
 
 以前にも書いた。
 
 副校長は、担任ではないし、担任の仕事はできないのである。
 
 逆に、担任は、副校長ではないし、副校長の仕事はできない。  
 
 
 
 今の、自分の役割を、まっとうしようと、思う。
 
 謙虚に、そして誠実に…。 

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2007年11月 6日 (火)

校門に立つ

 ほぼ毎日、校門に立って、子どもを迎える。
 
 
 
 顔を見ると、ほっとする子どもが、何人かいる。
 
 休みがちの子ども、前日友だちと大げんかをした子ども、生活リズムが不規則な子ども…。
 
 そういった子どもが元気に登校してくると、ほっとする。
 
 逆に、そういった子どもの姿を、登校時に見ることができないと、心配だ。
 
 今日はお休みだろうか、遅刻してくるのだろうか、担任に連絡はきているのだろうか、どこかで事件や事故に巻き込まれていないか…などなど、いろいろ考える。
 
 
 
 だからこそ、あたりまえに、元気に登校してくる子どもたちを見ると、うれしいし、自分も元気が出る。
 
 
 
 毎日、学校に、元気に登校する。
 
 このことのすばらしさとありがたさと難しさを、この仕事に就いて、つくづく感じている。
 
 
 
 そして、明日も、元気な子どもの姿を楽しみに、校門に立つのである。

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2007年11月 5日 (月)

人は、変わる

 
 人は、変わる。
 
 「近藤浩人」という名前(情報)は、変わらない。
 
 しかし、中身の「自分」は、変わっていく。
(詳しくは、養老猛司『バカの壁』参照)
 
 現在、44歳の近藤は、本校の子どもと、毎日、出会っている。
 
 これは、すごい出会いである。
 
 現在の子どもたちと、44歳の自分が出会っている、この偶然!
 
 
 
 20代前半の近藤と出会った教え子もいるし、40歳を超えた近藤と出会った教え子もいる。
 
 どの子どもたちも、『近藤浩人先生に受けもたれた』ということ(情報)は変わらないが、実際の中身は、大違いだ。
 
 どちらがよかったのかは、一概に評価できない(これが、この仕事の難しいところである)。
 
 しかし、「同じではない」ということは、間違いない。
 
 逆に、小学生時代の○○さん(これまで担任してきた子どもたちや、今の学校の子どもたち)に「出会うことができた」ということは、近藤にとって、非常に、幸せな出会いである。
 
 
 
 これを、「一期一会」というのだろう。
 
 近藤が、子どもにできることは限られている。
 
 できる範囲で、できることを、いっしょうけんめい、やりたい。
 
 「今」の近藤(それが、20代であっても、40代であっても)が、できることは、その時々で違うが、「『今』の近藤なりに、いっしょうけんめい、子どものことを考えて、行動する」ということについては、普遍でありたい
。(あくまでも、「ありたい」のであって、そうなるとは、限らない。だから、「人は、変わる」のであり、だから、人生は楽しいのかもしれない)
 
 
 
 担任と違う、子どもとの距離を感じる副校長の、戯れ言である。

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2007年11月 4日 (日)

監査の月

 この仕事について、気がついた。
 
 11月は、「監査の月」である。
 
 
 
 10月で、上半期が終わる。
 
 そこで、中間の監査があることが多い。
 
 11月に監査が多い理由である。
 
 
 
 1日(木)には、PTAからお預かりをしている「PTA教育活動協力費」の諸帳簿を、PTAの会計監査の方々に、監査していただいた。
 
 今日は、「はまっこ運営委員会
」(横浜には、「はまっこスクール」という事業がある。学校の敷地内に設置され、放課後遊びを推進する活動である)の諸帳簿の監査をした。(副校長とPTA会計監査で監査をするのである)
 
 そして、明日は、ISOの内部監査がある
。(ISOについては、10/21ブログ「ISO14001」を参照)区役所から監査委員の方が来て、監査を受ける。
 
 
 
 監査というのは、実によくできたシステムだ。
 
 「監査がある」という事実を知っているだけで、仕事に集中力と緊張感が生まれる。
 
 
 
 「監査」という呼び方ではないが、「研究授業」や「学校評価」も、その意味で「監査」である。
 
 他の人に仕事ぶりを見られ、評価されるのである。
 
 監査というシステムと同様の効果がある。つまり、仕事に集中力と緊張感が生まれるのである。
 
 
 
 しかし、あえて、あえて、書きたい。
 
 教師は、外部からの圧力ではなく、自信の責任感、使命感により、仕事に集中力と緊張感を生み出すべきである。
 
 そして、それを、多くの先輩教師たちは実践してきた。

(だから、近藤は、シロートが一面的な見方で、大雑把に教育を批判することに対して、現場人として、不快感をもつのである)
 
 外部の声に謙虚に耳を傾けつつ、最終的には、自分の学校や自分自信の責任感と使命感において、毅然と教育活動を展開し、成果を積み重ねる。そして、その過程や結果を公表し、見てもらう。
 
 これこそ、「教育における、あるべき『内部監査』」の姿である。
 
 
 
 しかし、「あるべき理想論」だけでは、現実の問題は解決しない。
 
 「あるべき『内部監査』」だけにまかせてしまえば、集中力と緊張感に欠けた実践が生じる可能性は大きい。
 
 人間は、そんなに理想的ではないのだ。
 
 だから、「監査」という「システム」(現実の問題を解決するための方法)は、よくできていると、思う。
 
 
 
 しかし、「監査があるから、やる」ではなく、「自分の責任において、やる」というのが、本来の姿であることを自覚しないと、
この監査というシステムが、主体性を欠如させるという機能を果たすことになりかねない。
(これをさらに突き詰めて考えていくと、「評価論」になっていくので、深入りはやめる) 
 
 
 正々堂々と仕事をし、謙虚な姿勢で、仕事を見ていただく。
 
 近藤の「監査」のスタンスは、これでいきたい。

(しかし、実際は、間際になって、大あわてをしている近藤である。情けない…。)

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2007年11月 3日 (土)

校風を感じる

 
 横浜港に「大桟橋ホール」というのがある。
 
 今日、はじめて、行った。
 
 本校の子どもが、和太鼓で出演するのである。
 
 子どもたちは、拍手喝采を浴び、とても、よい表情だった。
 
 
 
 昨日、ある学校に行って、子どもを指導した。
 
 その子どもたちも、とても、素直で、よい表情が印象的だった。
 
 
 
 しかし、「子どもの感じ」は、違う。
 
 本校の子どもたちは、シャイな感じである。
 
 昨日、おじゃました学校の子どもたちは、オープンな感じである。
 
 どちらも、「よい表情」なのだが、違うのがおもしろい。
 
 
 
 これが、学校の特色、風土、校風なのだろう。
 
 先生がかわっても、子どもがかわっても、校風は、変わらない。
 
 考えてみれば、とても不思議なことだ。
 
 
 
 いろいろな学校に、いろいろな校風があり、伝統がある。
 
 しかし、子どもの「よい表情」というのは、共通している。
 
 これは、万国共通だと思う。
 
 
 
 近藤は、公立学校の先生なので、いろいろな校風の学校に勤めてきたし、これからも勤める可能性が高い。
 
 どんな学校でも、その学校らしい校風の中で、その子らしさを生かしていきたい。
 
 どんな学校でも、どの学校の中に、「よい表情」の子どもを増やしていきたい。
 
 
 
 また、話が抽象的な総論になってしまった。(悪い癖だなぁ…)
 
 まずは、本校の子どもの「よい表情」を引き出すべく、全力を尽くそうと思う。
 
 自分の学校の子どもの教育に真剣に立ち向かわない者に、エラソに教育を語る資格はないのだから…。
 

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2007年11月 2日 (金)

教育をめぐる「言葉」

 「子どものよさを認めましょう」
 「ダメなことは、ダメと言わなければならない」
 「少しの成長をほめましょう」
 「子どもを丸ごと受け入れよう」…
 
 教育をめぐる、よい「言葉」は、数多(あまた)、ある。
 
 どれも、理解できるし、その通りだとも思う。
 
 
 
 しかし、実際に、責任を持って、子どもを育てている者にとっては、それぞれの言葉をどのように、実践に応用するかは、簡単ではない。
 
 
 
 例えば、「子どものよさを認めましょう」ということで、子どものよさだけを徹底的に見とり、励ます。(実際に、近藤には、そういう時期もあった)しかし、それ「だけ」では、だめだった。
 
 例えば、「ダメなことは、ダメと言わなければならない」ということで、徹底的に自分がダメを思うことに対して、ダメと言ったこともあった。しかし、それ「だけ」では、だめだった。
 
 
 
 教育に、完全無敵のオンリーワンの方法はないのだ。
 
 では、どうするか。
 
 それぞれの大人が、責任をもって、子どもを認め、諫め、励まし、叱咤するしかない。 
 「教育に、完全無敵のオンリーワンの方法はない」という言葉も、数多(あまた)あるうちの、教育をめぐる、よい「言葉」の一つである。
 
 こんな「言葉」は、シロートだって(いや、シロートだからこそ、エラソーに)書く。
 
 そんな言葉を書く暇があったら、「○○さんに、こうしたら、こうなった」ということを書くべきだ。
 
 それが、現場人のたしなみなのだろう。
 
 
 
 残念ながら、担任ではないとはいえ、現場の最前線にいる管理職としては、具体名を挙げての事例は、書くことができない。
 
 
 
 しかし、ここに書こうが、書くまいが、「うちの学校の○○さんに、こんなよい変化があった」ということを、積み上げていきたい。
 
 その小さな積み上げが、命のある教育をめぐる抽象的な「言葉」に、唯一、命を吹き込むことになる。
 
 
 
 などと、書けば書くほど抽象的になる今日の文章は、パラドックスである。
 
 どつぼである。
 
 
 
 なので、とりあえず、「今日、近藤は、ほんの少し、自分の実践の成果を感じたことがありました」
とだけ、ご報告をしておく。
 
 個人情報を保護するって、なかなか、たいへんなのである。

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2007年11月 1日 (木)

子どもからのメッセージ

 
 多くの子どもは、自分の思いを、言葉で表現できない。
 
 表情や行動で表現する。
 
 
 
 泣く、けとばす、逃げる、隠れる…。
 
 その行動の示すメッセージを、どれだけしっかりと受け取ることができるか。
 
 かなり、高度な、「教師の専門的な力量」である。
 
 
 
 今日も、いくつか、そんなことがあった。
 
 どの子どもも、必死に、訴えている。
 
 
 
 手をさしのべることができるのは、第一に「親(保護者)」である。
 
 そして、小学生なら、やはり「担任の先生」である。
 
 副校長ではないのだ。
 
 
 
 担任の代わりとして、家に行って会っても、教室で話をしても、本当の意味で「担任の代わり」には、なれないのだ。
 
 そして、担任は、「親(保護者)の代わり」には、なれない。
 
 
 
 現在、親である教え子から、このブログにコメントをもらった。
 
 本当に、ありがたい。
 
 そして、「親」になった教え子が、悩みながら子育てをがんばってることが伝わり、非常に、うれしくなった。
 
 
 
 親(保護者)が悩み、担任が悩み、先生方みんなで悩み、副校長が悩み、校長が悩みながら、必死に、「その子どもにとってベストな取組」を考えて、一人ひとりの子どもを育てる…。
 
 だから、苦しい。
 
 だから、しんどい。
 
 でも、だから、ちょっとの成長が宝物のようにうれしいのである。
 
 やりがいがあるのである。
 
 楽しいのである。
 
 
 
 明日も、子どもの言葉にならないメッセージをしっかり受け止めようと思う。
 
 そして、明日も、子どもの少しの成長を楽しみに、学校に行こうと思う。

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