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2007年8月31日 (金)

野菜の日

 今日は、何の日でしょう。
 
 
 
 なんと!「野菜の日」だそうである。
 
 「8月31日」だから、「8(や)3(さ)1(い)」だそうである。
 
 くぅ~~!!
 
 許せないほど、安易な命名だ。

 「野菜のよさを見直してもらおうと、1983年9月に食料品流通改善協会や全国青果物商業協同組合連合会など9団体が制定。」
 
http://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8831%E6%97%A5#.E8.AA.95.E7.94.9F.E6.97.A5_2

 
 
 ダイアナ妃の命日。
 
 これも、正解である。

 1997年の今日である。
 
 つまり、10年前の、今日である。
 
 
 
 さて、今日は、何の日でしょう。
 
 そうです。
 
 近藤の、誕生日です。
 
 44歳になりました。
 
 
 
 ちなみに、アニマル浜口、小林よしのり、田代まさしも、同じ日が誕生日である。
 
 くそ!愚連(ぐれ)てやる! 
 
 青木功、リチャードギア、野茂英雄も、同じ日が誕生日である。
 
 まぁ、ゆるしてやろう。(なに、エラソに書いてんだ??)
 
 
 
 とにかく、Happy Birthdayである。
 
 これを読んでしまったあなたは、「必ず」、近藤にBirthday Mailを送るように
。(「必ず」だぞ!!)
 
 
 
 というわけで、「野菜の日」に生まれた近藤のブログ、これからもご贔屓に…。

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2007年8月30日 (木)

話し方

 「報道対応」の研修に参加した。
 
 経験者による、非常に興味深い話を聴くことができた。 
 
 たーくさん、考えることが、あった。
 
 
 
 ここでは、最近の近藤の関心ごとを述べる。
 
 それは、「話し方」である。
 
 
 
 副校長になって、「では、副校長先生(近藤先生)から、一言」という場面が、多くなった。
 
 形式的な「一言タイム」である。
 
 聴きたい人など、(極端に言うと)誰もいない。
 
 その環境で、「聴かせる話」をするのは、非常に、つらい。
 
 
 
 なので、ついつい、話芸に関心が向く。
 
 先日は、「落語の歴史」「雑談の技術」などという本を、(不本意ながら)買ってしまった。
 
 それなりに、貴重な情報を得ることができた。
 
 しかし、最後は、「聴く人に有益な情報を、分かりやすく伝える」と言うことに尽きるようである。
 
 話術だけで、「聴きたい人など、誰もいない」話を、「みんなが聴きたくなる」話にするような技を、近藤は、もっていない(し、もつ必要もない)。
 
 「聴く人に有益な情報を、分かりやすく伝える」
これだけだって、たいへん難しいことである。
 
 下手に、「ウケねらい」をすると、墓穴を掘る。
「ウケねらい」の講演をしている大学教授や行政の上の立場の方は、多いようである。
そういう講演に参加すると、近藤は、いいようのない「不快感」を覚える。(そして、近藤は、これまで、「ウケねらい」の話を多くしてきたことを、反省する)

 やはり、シロートは、シロートなりの攻め方しかないのである。
 
 
 
 今日の、研修会のお話しは、よかった。
 
 何よりも、(あまり)「ウケねらい」を感じなかったからだ。
 
 事実を、淡々と、それでいて、本音で、分かりやすい言葉で、お話しされていた。
 
 さすが、「報道担当者」である。
 
 
 
 やはり、「話術」で聴かせるよりも、「事実」と「誠意」と「(ほんのちょっとの)工夫」で聴かせるのが、シロートの王道であろう、
 
 
 
 「話し方」

 これも、近藤にとって、ライフワークになりそうなテーマである…。

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2007年8月29日 (水)

仕事に真摯に

 昨日、子どもにマットを教える機会をもつことができた。
 
 「体育実技発表会」という行事に参加するため、近隣の体育関係の先生が集まって、子どもにマットを教える会があったのだ。
 
 指導した後、ある先生に、
「近藤先生、すごい生き生きしてましたね。」
と言われてしまった。
 
 「副校長の仕事をしている時も、生き生きしているよ」
と、切り返した。しかし、笑われてしまった。
 
 
 
 「近藤先生、ブログを読んでいると、だんだん、先生のスタンスが変わっていく感じがします」
 今日、知人に指摘されたことだ。
 
 たしかに、4月、5月の近藤は、「何で、俺、授業してないの?職員室の前に座ってるの?『副校長』って呼ばれているの?」という違和感が、日々のブログの行間ににじんでいた。
 
 ところが、最近は、すっかり「副校長」という仕事に、慣れたように書きぶりになっている。(典型的なのは、「07/07/02 順応力?鈍感力?」である)
 
 
 
 「授業最前線の先生」の仕事も素敵だが、「最前線の先生方の後方支援」の仕事もおもしろい。
 
 どちらの仕事も、近藤は、大好きである。
 
 
 
 いや、与えられた仕事に、「好き」「嫌い」を言うのは、不遜である。
 
 職種の名前がどう変わろうと、子どもの教育にかかわる仕事を選んだ自分の仕事に、真摯に取り組んでいきたい。
 
 
 
 今日で、夏休み、終了。
 
 明日、元気な子どもの顔を見るのが、楽しみである。

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2007年8月28日 (火)

BKY

 Ba no(場の)

 Kuuki ga(空気が)
 
 Yomenai(読めない)
 
 「場の空気が読めない」ことを、「BKY」というらしい。
 
 
 
 「空気が読めない」とは、「雰囲気がわからない」ということであり、「『阿吽の呼吸』がわからない」ということである。
 
 
 
 「阿吽の呼吸」とは、「あうんのこきゅう」と読む。
 
 この、「言葉にしなくても分かり合える感覚」は、日本人特有、日本人のDNAに組み込まれた感覚かもしれないと、思う。
 
 
 
 なぜなら、「村社会」という狭い世界とは無縁のはずである、現代の子どもたちが、まさに、この「阿吽の呼吸」(つまり、BKY)がわからなくて、お互いの首を絞め合っているのである。
 
 
 
 誰に教えられた訳でもない、「空気を読めなくてはならない」という感覚。
 
 これに、縛られる日本の子どもたち(ちょっとオーバーかな?しかし、近藤の見る小学校高学年には、この感覚をもっている子どもは、多い)。 
 
 これを、どう、説明すればよいのか。
 
 
 
 「BKY(場の空気の読めない)」近藤は、ただただ、違和感を感じるのである。
 
 (今日のブログ、何いってんのか、わからねえな。だめだ、こりゃ…)

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2007年8月27日 (月)

やった!

 いつものように、電話をとる。

「あ、副校長先生ですか。○○です。」

「どうだった?鉄棒は!?」
 
「できました!練習の時、初めてできて…。本番でも、できたんです!」
 
「ほら、いったとおりだろう!よかったなぁ!」
 
 
 
 教員採用試験に、鉄棒の実技試験があるというので、○○先生に、少し、指導した。
 
「もう、できているよ。そうだなぁ。8月20日前後には、できるから大丈夫」
近藤の見立てを、正直に、話した。
 
 彼女は、半信半疑である。(あたりまえである) 
 
 実際に「できた」時、この半信半疑は、「自分への自信」になる。
近藤は、これまで、多くの子どもを見てきたので、確信できた。
必ず、できるようになる、と。
 
 しかし…。 
 
 8月20日を過ぎても、できなかった。
 
 8月21日のブログに書いた。
「期間内に明白な結果が現れるかどうかは、『神のみぞ知る』ことである。」
 
 まさに、「神頼み」である。 
 
 そして、今日の電話である。
 
 「できました!」という言葉を聞いた時、全身が震えるような気がした。
 
 彼女のがんばりに、今日は、乾杯したい。 
 
 個人的には、「なぜ、彼女は、近藤の予言した日にはできなかったのか。そして、採用試験当日に、できたのか」を緻密に分析したいと思っている。
これは、近藤のミッションだと思っている。
 
 
 
 もう一人、採用試験があるので指導した□□先生がいる。
 
 彼女からも、電話があった。
 
 マット運動の試験で、多くの受験者が「開脚前転」を選択したが、その先生は「倒立経過前転」を選択し、きちんと試技をしたらしい。満足した声で、報告してくれた。
 
 彼女の結果については、予想通りである。
 
 □□先生も、本当に、よくがんばった。
 
 あとは、吉報を待つばかりである。
 
 
 
 二人の電話を受けた後の近藤の感想。
 
「やった!!」
 
 これに、尽きる。
 
 技ができるようになったのは、二人の先生の努力の賜である。
 
 本当に、すばらしい。
  
 近藤は、二人の先生の、ほんの少しの成長に、ほんの少しだけ、直接的にかかわることができたことが、この上なく、うれしいのだ。
 
 この満足感は、教師(人を教える仕事)でしか味わえない醍醐味である。
 
 今日は、ひさびさに、その醍醐味を感じることができた。
 
 
 
 ご満悦の近藤である!!
 

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2007年8月26日 (日)

○○力

 「今回の改訂のキーワードは、『○○力』である。(学力・体力・市民力・創造力・人間力・学校力・教師力・授業力…)」(06/10/15ブログ参照)
 
 この「○○力」というのは、実にあいまいな言葉である。

 近藤は、あいまいな言葉を否定はしない。
 
 しかし、あいまいな言葉によって、議論が混乱し、不毛の議論が増えることを危惧している。(07/07/15 ブログ参照) 
 
 佐藤氏は、述べている。

 
「ちなみに『学力』の意味が拡張したり混乱したりしたりするのは、『achievement』を『力』としてみているからです。『学力』という翻訳語の漢字の意味が事態をややこしくしています。つまり『achievement』の実体ではなく機能をみて『力』と認識しているのです。」
(佐藤学『学力を問い直す』(2001年 岩波ブックレット)p16) 
 
 おそらく、「○○力」で表されている「力」の意味は、
「achievement=達成、業績、学業成績」や、
「power=(潜在的・実行)力、能力」ではなく、
「ability=(実際にものごとができる)(…の)能力、才能、手腕、実力、力量)」
であろう。
(横文字をいじることは得意でないので、ここでやめる) 
 
 それにしても、「○○力」とは、便利な言葉である。
 
 では、なぜ、教育論議で「○○力」という言葉が好まれて使われるのか。
 
 
 
 教育には、当然、「よい営み」と「よくない営み」がある。
 
 世の中に、「よい営み」を創り出す学校がある。「よい営み」を創り出す教師がいる。
 
 これは、多くの人が実感していることである。
 
 その学校や教師のことを、「力のある学校」「力のある教師」と呼ぶ。その「力」とは、「総合的な力」としかいいようのないものである。
(志水宏吉「学力を育てる」(2005年 岩波新書)p171)
 
 つまり、「正確に表現するのは、非常に難しいが、誰もが実感できる、実体」を表す言葉として、「力」という表現を用いる場合が多いのである。(なかには、実感できないような、わけのわからない「○○力」もあるが…)
 
 「正確に表現するのは、非常に難しい」教育を語ろうとするから、この「○○力」という言葉が、好まれて使われるのである。
 
 
 
 近藤も、実は、これから、「○○力」という言葉を使おうと考えている。 
 
 近藤は、「ability=(実際にものごとができる)(…の)能力、才能、手腕、実力、力量)」という意味で、「実際に○○ができる能力」を「○○力」ととらえておこうと思う。
 
 
 
 などと、つらつら書いてきて、思う。
  
 あーあ、やっちゃった。
 
 また、「言葉遊び」の世界に足を踏み入れちゃったよ…と。
 
 こういう、理屈っぽさが、建設的な教育の議論を妨げるのである。
 
 
 
 ミイラ取りがミイラになった、近藤である。

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2007年8月25日 (土)

授業研究改善論

 「研究授業」という授業がある。
 
 授業を教師が見合って、批評し合うのである。
 
 日本では、「あたりまえ」の研修の方法である。
 
 しかし、今、この方法が、アメリカでは、教員の力量形成の方法として、注目されているという。(千々布敏弥『日本の教師再生戦略』(教育出版2005年)p51)
 
 近藤も、「研究授業」を、ほぼ毎年経験してきた。
 
 
 
 多くの「研究授業」を経験して、思うことがある。
 
 たしかに、「研究授業」は、教師の力量形成にとって、非常に有効な方法といえる。
 
 しかし、子どもを育てているのは、「研究授業」だけではない。
 
 むしろ、「研究授業」以外の「普通の授業」が、子どもを育てているのだ。
  
 
 
 ちょっと、長いが、引用する。 

 
 私たちは、あまりにたくさんの退屈な授業を経験したため、ともすれば「生き生き授業」とか「ドラマのある授業」とか、非日常的で劇的な授業を夢想しがちです。テレビで放映される授業の場面や書店で手にする教師の授業記録の多くは、「生き生き授業」とか「ドラマのある授業」をいささか誇張してアピールしています。しかし、常識的に考えてみればわかることですが、14000時間ものじかんを非日常的で劇的な授業として実施するのはだれにも不可能ですし、仮に実施したとしても、教師も子どもも疲れてしまって疲弊するだけでしょう。教室をていねいに観察すれば理解できることですが、子どもは決して「生き生き授業」や「ドラマのある授業」によって育っているわけではありません。もっと日常的で小さな出来事を通して、子どもは豊かに学び育っていますし、教師も日常的で小さな事実の創造を通して、より豊かな価値のある教育実践を創造しています。
(佐藤学『教育の方法』(放送大学教育振興会1999年)p11)
 
 
 
 「研究授業」をすることには、価値がある。
 
 せっかく「研究授業」をする機会があるのだったら、「研究授業のための研究授業」にするのは、もったいない。
(「研究授業のための研究授業」だって、「研究授業」をしないよりは、はるかによいことだと、近藤は思っている)
 
 「普通の授業」がよくなるような「研究授業」をするべきであるし、そのための方法を工夫するべきである。
 
 
 
 これは、ささやかな、近藤の「授業研究改善論」である。

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2007年8月24日 (金)

学校の特色

 本校は、横浜市のはじっこに位置する。
 
 ちょっと、足を伸ばせば、鎌倉市である。
 
 交通の便が良いとはいえない。(はっきりいって、悪い方だ)
 
 
 
 おかげで、静かな環境である。
 
 近くには、市内有数の自然があり、敷地内に、木や畑や田んぼ(今年用務員さんがつくってくれた。しかけたのは、本校の先生である)、そしてビオトープがある。
 
 
 
 近藤の勤めていた前任校、前々任校とは、大きな違いである。
 
 前任校は、横浜のど真ん中に位置する学校だった。
 
 前々任校は、横浜の中核都市の真ん中に位置する学校だった。 
 
 両校とも、歴史があり、新旧入り乱れていた。
 雑然とした感があったが、近藤は、そんな雰囲気が、たまらなく好きだった。
 
 
 
 今、勤めている学校は、雰囲気が違う。
 
 落ち着いているのである。
 しっとり感がある。
 
 これが、また、よい。
 
 
 
 「学校の特色」という言葉がある。
 
 近藤は、ある仕事の中で、「○○らしさは、創られるものではない。すでに、あるものだ」と主張したことがある。
 
 「桂台小学校らしさ」は、すでに、存在しているのだ。
 
 そのよさを、アピールできるような、学校経営でありたい。
 
 「学校の特色」は、職員が創るものではなく、すでに、「ある」ものなのだ。
 
 その「ある」ものを、どれくらい「武器」にできるか。
 
 知恵の出しどころである。
 
 
 
 静かな職員室。
 
 とても「開かれた学校」をイメージすることのできない職員室。
 
 そこで、「これも、本校の『よさ』なんだな」
と、気付いた、近藤であった。
 

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2007年8月23日 (木)

「たまに」指導するよさ

 教員採用試験を受ける若い先生に、鉄棒を教えたと、8月21日のブログに書いた。
 
 ほんの10分か20分教えただけだ。
 
 しかし、授業のチャンスを失っている近藤にとっては、貴重な機会であった。
 
 授業のチャンスを失っているがゆえに、密度の濃い時間だったと、感じている。
 
 
 
 毎日、5時間授業をしている先生方は、すごい。
 
 まさに、授業に、追われているという感じである。
 
 せっせ、せっせと、授業をこなしている。
 
 しかし、今の近藤のように「たまに」指導の機会が与えられる者にとっては、「たまに」授業ができることが、うれしくてたまらない。
 
 だから、密度の濃い指導ができる。
 
 じっくり振り返ることもできる。
 
 せっせ、せっせと、授業をこなしていた時には、気がつかなかったことに、今回、気づくことが多かった。
 
 これは、「たまに」授業をするよさであろう。
 
 できれば、ちょっとずつ、授業をする場を広げていきたいと、個人的には、思っている。
 
 
 
 さて、近藤の指導した先生方である。
 
 ぜひとも、良い結果を出してほしい。
 
 そして、採用試験に向けてがんばった「鉄棒の学習」を、若い先生方がどう振り返るか。

 近藤としては、大いに興味があることである。
 
 
 
 今、近藤のできることは、とにかく吉報を念じて待つのみである。

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2007年8月22日 (水)

真夏に授業

 水泳大会の翌日。
 
 水泳大会担当の先生は、体調が悪く、一日お休み。(熱中症と診断されたらしい)
 
 それ以外の先生方も、体調不良を訴えたり、休みをとる先生が多かった。
 
 考えてみれば、当たり前である。
 
 日中の一番暑い時間帯(推定40度近く)に、炎天下で、2時間くらい立ちっぱなしで仕事をするのだ。
 
 昔の「暑さ」と「暑さ」が違う。 
 
 異常気象である。
 
 とくに、都会の夏は、異常に暑い。
 
 
 
 それなのに、横浜の学校の多くは、8月から授業を始める。(昔は9月1日からだったのに…)
 
 授業日を確保するためである。
 
 昔より、夏が暑くなっている。だから、昔より、夏休みは長くてもいいくらいなのだ。
しかし、現在は、昔より、夏休みが短いのである。
 
 40度近い教室で授業をして、いったい、どれほどの効果があるのか。(誇張ではない。本当に40度近くなるのである。)
 
 「機械的に」授業日、授業数を増やすことの、「ばからしさ」がわかるであろう。
 
 
 
 「授業日を増やせ」
 「小学校で、英語を教えろ」
 「小中一貫教育をやれ」
 「食教育をしろ」
 「キャリア教育をやれ」
 「法教育をしろ」
 あれをやれ…、これをやれ…。
 
 
 
 これらを、「自立していない学校」が、まともにやろうとすると、撃沈する。(しかし、学校の先生は、真面目な人が多いので、それを必死にやろうとすることが多い。近藤も、その一人である)
 
 「自立した学校」とは、学校の考え方や方針が明確で、教育の内容にpriority(優先順位)をつけることができる学校である。
 
 「自立した学校」とは、目の前の子どもに一番良い方法を選ぶことができる学校である。

 「自立した学校」とは、よい成果を出すために、「知恵」を出すことができる学校である。
 
 
 
 「真夏に授業」…、もう、最悪である。

 しかし、これを、
「真夏にしかできない授業」や
「真夏だからこその授業」にしていく「知恵」をもつ学校。
 
 これが、「自立した学校」であるといえよう。  
 
 
 
 公立学校にお勤めの皆さん。
 
 しっかりと「自立」し、周囲の「教育大旋風」に振り回されないようにしましょう。
 
 
 
 これは、「自分へのメッセージ」でもありますが…。
 

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2007年8月21日 (火)

鉄棒を教える

 採用試験を受けている先生に、鉄棒を教えた。
 
 一人の先生には、1回、直接指導をした。その後、鉄棒の本を貸した。
 
 もう一人の先生には、直接指導をし、宿題を出し(「前回りおりを一日10回する」など)、明日、もう一度指導する。
 
 二人とも、必死である。
 
 暑さでしゃがみこんだり、体に鉄棒のあざをつくったりしながら、練習している。
 
 ぜひとも、「できた!」と言わせたい。 
 
 近藤は、必死に教えた。
 
 しかし、未だ、「できた!」という報告は、ない。
 
 くやしい。
 
 
 
 考えてみれば、二十歳をこえたおとなに、一回や二回指導して、技ができるようになるわけはないのだ。
 
 やはり、成長を育む第一条件は、「経験の量×質」であることを、つくづく、感じた。
 
 そして、自分の未熟さも…。
 
 質の高い経験をより多くすること。
 
 効果的な学習、著しい成長の第一条件である。
 
 
 
 採用試験を間近にひかえた、若い二人の先生は、日夜、鉄棒の練習に励んでいる。
 
 その切実感が、質の高い経験を生み出している。
 
 何とか、「成果」を実感させてやりたい。
 
 しかし、期間内に明白な結果が現れるかどうかは、「神のみぞ知る」ことである。
 
 
 
 切実に学ぶ子どもがいて、必死に教える先生がいて、明白な結果が現れるかどうかは、「神のみぞ知る」…。
 
 これが、「教育」という営みなのである。
 
 
 
 二人を教えた後、久しぶりに、教育の難しさを感じてしまった。
 
 この現場感覚を、教育改革を叫ぶ人たちに、感じてほしいものである。
 

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2007年8月20日 (月)

水泳大会

 本日、水泳大会。
 
 本校、会場。
 
 気温30度以上、水温27度、ベストコンディション。
 
 灼熱の太陽。
 
 水しぶきと歓声。
  
 走り回る職員。
 
 
 
 
 静かな職員室。
 
 涼しい職員室。
 
 肌は焼けず、汗もかかない職員室。
 
 しかし、近藤には、ちっとも「快適」ではない職員室。
 
 
 
 よい条件のもと、病人やけが人が出ることもなく、水泳大会が終了して、よかった。
 
 それだけが、近藤にとって、「きょうのよかったこと」かな。

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2007年8月19日 (日)

学校の特色

 昨日は、隣接する中学校の「30周年記念イベント」だった。
 
 本校の高学年の有志と卒業生が、ジョイントで「桂台太鼓」を披露した。 
 
 見事な発表だった。 
 
 特別に練習したわけではない。
 
 前日、1時間程度、合わせただけである。
 
 「こんな簡単なことを、「小中一貫教育」の足がかりにできないかなぁ…。」と、考えていた。
 
 
 
 本校と中学校の間に、「知的障害者厚生施設」や「障害者地域活動ホーム」がある。
 
 「30周年記念イベント」に、そこからも参観者が来ていた。
 
 近藤は、知的障害があると見受けられる、一人の男性に、目がひかれた。

 太鼓の音に、非常に楽しそうに反応するのである。
 
 にこにこしながら、手をたたいたり、体をリズムにあわせて動かしたりしていた。
 
 付き添いの方が、にこやかに、しかし、周囲に迷惑がかからないように見守っていた。
 
 近くに座っていた中学生も、にこやかに、それを見ていた。
 
 自然な、光景だった。
 
 
 
 「これこそ、桂台小学校、桂台中学校の『特色』になりうる原風景だ」と、感じた。
 
 隣接する小学校、中学校、そして障害者の施設。
 
 そこに集う仲間が「何か」共通の目的で、活動する。同じ空間で生活する。
 
 そこには、「小中一貫教育」もある。
 「人権教育」もある。
 「福祉教育」もある。
 「キャリア教育」だって、「食教育」だって、「環境教育」だって、「安全教育」だって展開できそうである。
 
 
 
 「学校の特色」、「地域の特色」は、「創る」ものではなく、「ある」ものである。
 
 今「ある」特色を、いかに子どもたちのために有効に機能させるか。コーディネートできるか。
 
 それが、これから、各学校に求められる「学校経営」の鍵である。
 

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2007年8月18日 (土)

良いこと、正しいこと

「好きか嫌いかは、自分が決める。
 
 良いか、悪いかは、社会が決める。
 
 正しいか正しくないかは、歴史が決める。」

 【明治図書『現代教育科学』(2007/07月号)p20  野口芳宏「教育勅語と修身科」】
 
 
 
 「目から鱗」である。
 
 出典不明のこの言葉は、実に、含蓄のある言葉である。
 
 
 
 ここでは、「良い、悪い」と「正しい、正しくない」を分けて書いてある。
 
 「良くても(社会的に評価されていても)、正しくないこと」、
 「悪くても(社会的に評価されていなくても)、正しいこと」が、あるということだ。
 
 
 
 思わず、「うーん、なるほど…。」と絶句してしまう。
 
 
 
 近藤は、「良いことと正しいこと」を、混同していることが多かった。
 
 「悪くても(社会的に評価されていなくても)、正しいことがある」と主張できるほどの自信がないのである。
 
 「自立」していないといってもいいのかもしれない。
 
 
 
 これは、よいことでは、ない。
 
 少なくとも「教育」の分野については、「正しいこと」を主張する見識と度量をもちたいものである。
 
 
 
 それには、まだまだ、修行がたりない。
 
 
 
 でも、いつかは「正しいことを主張できる人間」になりたいと、憧れている。
 
 遠い先の「夢」である。

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2007年8月17日 (金)

「言葉遊び」と「お絵かき遊び」

 教育研究に興味をもちはじめる先生方が陥りやすい過ちがある。
 
 「言葉遊び」と「お絵かき遊び」である。
 
 大学の先生方にも、多い(と近藤は思っている)。
 
 
 
 「言葉遊び」とは、言葉をいじくりまわすことである。
「ここの『支援』という言葉の定義なさぁ…」
「これって、評価『基準』じゃなくて、評価『規準』にするべきじゃないの…」
「『基礎・基本』のとらえを明確にしないと…」
かくして、一般の人にわからない、「業界用語」が産出されるのである。
 

 
 「お絵かき遊び」とは、「言葉ではわかりにくい。絵や図にするとわかりやすい」というパターン認識をもった人が、言葉で表した方が正確で分かりやすいことを、図を使ってさらにわかりにくくするという現象である。
 
 
 
 最近、とくに、思うことがある。
 
 本当にわかっていない人が、わかったふりをして、「言葉遊び」や「お絵かき遊び」をし、それを、何も知らない素人の人々に、まことしやかに喧伝し、混乱を招く。
 そして、こういった事態が、教育界には、特に、多い。
 
 昨日、今日、研修会に出席させてもらって、あらためて、感じた。
 
 まったく、嘆かわしい。
 
 しかし…。
 
 
 
 近藤本人こそ、「わかったふりをして、『言葉遊び』や『お絵かき遊び』をし、それを、何も知らない素人の人々に、まことしやかに喧伝し、混乱を招」かせてきた張本人であるなのだ。
 
 詳細は、書かないが、7年前に近藤が提案したことと、反対のことを、今日の研修会で、担当者が、まことしやかに主張しているのを見て、思った。
 
 7年前、近藤の提案を信じて教育活動をしてきた人が、今日の提案を聴いたらどう思うだろう。
 
 「ふざけるな!!お前ら、ほんの7年前は、逆のことをいっていただろう!それを信じて教育活動をしてきた俺の実践をどうしてくれるんだ!!」
 
 民間企業なら、近藤は、「くび」であろう。
 
 しかし、近藤は、「くび」にならない。
 
 「ふざけるな」といってくる人もいない。
 
 「親方日の丸」の、弱点である。
 「いい加減」だなぁ。と、思う。
 
 
 
 ここに、公立学校への不信感の根っこがあるような気がする。
 
 だからこそ、「市場原理」「競争原理」をはたらかせた「新自由主義的教育改革」が「現在」の「流行」になっているのである。
 
 「くび」を覚悟にしていないシロートの戯言の典型が、教育研究における「言葉遊び」「お絵かき遊び」である。
 
 
 
 これまで、「言葉遊び」「お絵かき遊び」をしてきた自分の反省の意味を込めて、これからは「本当の研究」を探っていきたいと、思った。
 
 それにしても、「あと、10年くらいは、まだ、右往左往するなぁ」というのが、今日の協議会に参加しての、近藤の実感である。

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2007年8月16日 (木)

情報収集

 午後、教育課程研究協議会に参加した。
 
 その後、横浜市体育研究会副校長研修会に参加した。
 
 
 
 教育界の最近の動向をつかむことができた。
 
 最近の教育界の動きは、はやい。
 
 気を抜いて、勉強を怠ると、すぐに「浦島太郎」状態になる。 
 
 あと数年は、矢継ぎ早に、「教育改革」の波が怒濤のように現場に押し寄せてくるだろう。 
 
 しかし、「自立した教育観」をもたないと、「怒濤の教育改革の波」を、乗りこなせない。
 
 波にもまれて、溺れてしまう。
 
 「浦島太郎」にならず、「怒濤の教育改革の波」に溺れないためには、情報が必要だ。
 
 副校長は、チャンスがあれば、意図的に「情報収集」に励まなければ、すぐ「浦島太郎」になってしまう。
 
 
 
 というわけで、今日は、一生懸命「情報収集」に励んだわけだが…。
 
 暑すぎた。
 
 灼熱の太陽、とろける自分…。
 
 やはり、学習には、学習者の意欲だけでなく「よりよい環境」が不可欠である。
という、やや、情けない結論に達した、今日の研修であった。
 
 (「それにしても、40度はねぇだろ!!」って感じである)
 

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2007年8月15日 (水)

墓参

 昨日は、墓参りにいった。
 
 近藤としては、数年ぶりである。
 
 
 
 墓は、千葉県の木更津にある。
 
 アクアラインを使えば、1時間ほどである。
 
 
 
 久しぶりの墓参りだ。
 
 親戚が、父や母の体調を気遣う。 
 
 数年ぶりの墓参り。

 だが、そんな感じがしなかった。
 
 いつもの親戚、いつものお墓、いつもの夏…、であった。
 
 
 
 今年の春、おじさんが亡くなったので、今年は「新盆」である。
 
 「昔のしきたりをしている人がいなくなっている」と、従兄弟がいっていた。
 
 「簡略化できることは、簡略化しなくては…」とも、いっていた。
 
 
 
 今の時代にあった方法を、次の世代が模索している。
 
 しかし、その「精神」は、脈々と生きている。
 
 これが、「伝統」というものであろう。
 
 
 
 形は新しく、気持ちはそのままに…。
 
 融通無碍(ゆうずうむげ)の柔らかさが、日本の強さである。
 
 そして、それは、今の自分の仕事にも求められている。
 
 「流行」と「普遍」
 
 そんな言葉を実感できた、久しぶりの墓参りであった。
 
 
 
 そして、今日は、終戦の日。
 
 時代は変われど、一時代を必死に生き抜いた御霊の価値は「普遍」である。
 
 
 
 
 先人に、合掌。

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2007年8月14日 (火)

人事考課 再考

<現在、工事中。乞うご期待!!>

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2007年8月13日 (月)

人事考課研修

<現在、工事中、乞うご期待!!>

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2007年8月12日 (日)

地域ネットワーク

 父の胸のあたりは、汗疹(あせも)だらけである。
 
 シャワーに入れ、パウダーをはたく。
 
 昨日は、おなかの調子が悪く、落ち着かない様子だった。 
 
 紙おむつをかえる。 
 
 母は、朝から食欲がないという。
 
 
 
 高齢者にとって、毎日35度の中で生活するというのは、それだけで、苦行である。
 
 
 
 ましてや、被災地の高齢者の生活など、想像を絶する。 
 
 冷房のない学校の体育館で35度以上(きっと体育館の中はそれ以上だろう)の気温。
 
 慣れない生活空間。
 
 不十分な設備・施設。
 
 地獄であろう。
  
 
 
 学校は、緊急避難所になっている。
 
 横浜でも、大地震等があれば、学校が避難所になる。桂台小学校も例外ではない。
 
 緊急避難をしてきた住民が快適に過ごせるようにしたい。
 
 しかし、国や行政には、お金がない。
 
 
 
 それを補うことができるのが、地域のネットワークであろう。
 
 お金をかけて、緊急時に快適な体育館をつくることも、悪くはない。
しかし、不十分な施設の中でも、助け合って生きていくことができること。
これが、地域ネットワークである。
地域ネットワークは、お金はかからない。
そして、お金では、買えない価値がある。(新興住宅地にある新設校にいくらお金をかけても、古い町並みのようなネットワークはつくることができない)
 
 その、地域のネットワークの核としての役割を、学校が担っている場合も多い。
 
 そう考えると、公立学校の機能は、「勉強を教える」だけではないことがわかる。
 
 
 
 「市場原理」「競争原理」による「行き過ぎた」新自由主義的な教育改革では、学校は「地域ネットワークの核としての役割」は、担えない。
 なぜなら、「隣の人と競争し、勝ち抜くことで、よくなっていく」というのが、「競争原理」であるのだから。
 
 日本の学校は、これまで「教科(文化)を教えるだけの学校」ではなかった。
「地域の中の学校」だったのである。

 「『公立学校』のよさは、そこに『さまざまな人間が集う』中にこそある。」(志水宏吉「学力を育てる」(2005年岩波新書)p188-189)
という志水氏の主張は、近藤にとって、とても、しっくりする主張だ。 
 
 「地域ネットワークの核としての役割」
 これは、新しい時代の学校像を模索している近藤にとって、非常に大切なキーワードになるような気がする。
 
 
 
 今日も、酷暑と戦っている父と母。
 
 あなたも、この暑さにやられないように、十分注意してくださいね。

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2007年8月11日 (土)

お仕置き

 酷暑である。
 
 日中は、「激」「猛」「超」暑である。
 
 今年から、最高気温35度以上の日を「猛暑日」と呼ぶらしい。
 
 天気情報によると、一週間ほど、「猛暑日」になる可能性もあるらしい。
 
 どう考えても、地球は温暖化している。
 
 
 
 朝、ゴミ出しをする。
 
 横浜は「G30」といって、中田市長になってから、環境行動宣言都市として、積極的にゴミを分別回収するようになった。
 
 このくそ暑いのに、毎日がゴミ出しである。
 
 学校でも、ゴミを様々に分別して捨てる。(分別の種類は10種類以上である)
 
 そして、それぞれのゴミの量を計量し、リサイクル率などを計算し、多くの書類を行政に提出する。
 
 その、ほとんどの仕事が、副校長の仕事である。
 
 
 
 あー、めんどくさい。
 
 
 
 昔はよかったね。
 
 ゴミは分けずに、バンバン捨て、焼却場でガンガン燃やしてたんだから。
 
 夏だって、30度越えると、「今日は、ものすごい暑い一日だったね」なんて、言っていたのだから。
 
 
 
 と、思わず、考えたくなってしまう。
 
 しかし。
 
 「ゴミは分けずに、バンバン捨て、焼却場でガンガン燃やして」
二酸化炭素を増やしてきたから、地球温暖化になったのである。
 
 つまり、環境のことを考えずに近代化に邁進してきたツケが、現在、われわれの生活にまわってきているのだ。
 
 総合の授業で、「自然や緑を守りながら、便利な生活を追求することは可能か?」というテーマで単元を組んだことがある。
(詳細は、「黎明書房『総合学習』第13号 「一人一人への適切な支援のために」<2002/5/15> p30-33」参照)
 
 この問いは、まさに、現在生きているわれわれに突きつけられている課題なのである。
 
 
 
 中国の汚れた空をテレビで見て
「おいおい。中国の人たちよ。少しは、環境のこと考えろよ」
と感じる近藤が、ゴミの分別を面倒くさがっている。
 
 同じ穴の狢(むじな)である。
 
 
 
 持続可能な社会に向けて、知恵を出し合うことは、喫緊の課題である。
 
 環境への意識を、どう教育課程に組み込んでいくか。
 
 この問題への、近藤の、課題である。
 
 
 
 この暑さは、地球を独り占めして、好き勝手にしている人間への「お仕置き」なのかもしれないですね。

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2007年8月10日 (金)

密度の濃い時間

 横浜市では、夏休みに、「教育課程研究協議会」という研究協議会がある。(名称は、「教育課程編成委員会 研究協議会」「教育課程運営・改善研究協議会」などと変遷してきた)

 全市の小学校から1名以上、各教科の担当者が、各教科の「研究協議会」に参加する。(例えば、「体育」の「研究協議会」には、市内350校以上の学校から、体育主任や体育部員が集まって研究協議をするのである)
 
 昨年まで9年間、その研究協議会で、提案をしたり、シンポジストとして参加したりしてきた。
 
 「研究協議会」は、8月中旬から下旬に開催される。
 
 そうなると、夏休みのほとんどは、その準備に追われる。
 (9年間のうち、6年間は、菅平にある文部科学省の体育研究所で3泊4日の合宿をしていた)
 
 
 
 今年、10年ぶりに、「普通」の夏休みを過ごさせてもらって、つくづく、思う。
 
 過去9年間の夏休みは、「密度が濃かった」と…。
 
 
 
 昨日、今年提案する先生方に「応援メッセージ」を送らせていただいた。
 
 
 
 どうか、悔いのない準備をし、当日をむかえてほしい。
 
 
 
 実践の最前線をはなれ、実践提案をする機会も少なくなった今の近藤は、今にして、思う。
 
 これまでの夏の「密度の濃い時間」は、大きく自分を成長させてくれていたのだと…。
 
 
 
 そして、近藤には、「自分で密度の濃い時間を創り出していく」取組が、今後、求められているのだと、ここ数日の酷暑の中で、ぼんやり、考えていた。

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2007年8月 9日 (木)

危険を予期する能力

 最近の、子ども服。
 
 やたらと、「いらないもの」がついている。
 たとえば、ずぼんや上着すそにひもがついている。上着にフードが付いている。首周りにもひもがついている…。
 
 「あれって、危なくないのかなぁ…。」
前から、心配だった。
 
 
 
 やはり、危なかった。
 
 東京都の「くらしの安全情報サイト」に、事例があった。

http://www.anzen.metro.tokyo.jp/child/minomawari.html

 「上着の首周りのひもなどが、遊具、自転車、ドアにひっかかって首が絞まり、窒息しそうになった事故が発生しています。」
 「ズボンや上着のすそに付いているひもなどが、遊具、自転車、ドアにひっかかり転倒して打撲した、自分でひもを踏んで転倒し手首を骨折したなどの事故が発生しています。」
 「フードが、滑り台・ジャングルジムなどの遊具やドアノブにひっかかってい、首つり状態になり窒息しそうになった事故が発生しています。」
(東京都「身のまわりの危険から子どもを守りましょう! 身に付けるもの編」リーフレットから引用)
 
 
 
 「ハインリッヒの法則」と呼ばれるものがある。
「1件の重大な事件・事故の背景には、29の事件・事故があり、事故に至らないものの『ヒヤリ・ハット』した事象が300件あるという」法則である。
 
 子ども服に付いている「危険物」で、「まだ」重大な事件・事故は起こっていない。
 
 しかし、すでに、重大な事件・事故を予見させる、事件・事故は、起こっている。
 
 残念ながら、近藤の心配は、あたってしまっていたのだ。
  
 重大な事件・事故が起こる前に、未然に防ぐ対策を考えたい。
 
 
 
 危険を予期する能力は、(教科の指導力や教師の人間性ほど)比較的、重要視されていない面がある。
 
 しかし、教員には必要な大切な能力の一つである。
 
 教員というのは、多様な能力を求められる専門職なのだと、つくづく、思う。

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2007年8月 8日 (水)

教育は人なり

 夏休み中、だいたい管理職は、学校にいる。
 
 副校長(教頭)か校長、どちらかがいることが多い。(別に、いなくても、かまわないのだが…)
 
 近藤は、この夏休みは、「全出勤」の心づもりであった。
 
 新米副校長としては、あたりまえである。
 
 
 
 しかし、心優しき、本校の校長先生は、「俺が(学校に)いるから、休みなさい」といってくれる。
 
 ありがたや、ありがたや。
 
 
 
 というわけで、明日から2日間、お休みする。
 
 さらに、近藤は、夏休み中に、いろいろな研修にも、行かせてもらっている。
 
 校長先生、さまさまである。
 
 
  
 うちの校長先生は、いつも「副校長目線(ふくこうちょうめせん)」なのである。これは、すごいことだ。
 テクニックではないのだ。
 お人柄なのである。
 だから、すごい。
 
 校長先生に、学ばなくてはならない。
 
 
 
 近藤としては、校長先生に学び、「職員目線(しょくいんめせん)」「子ども目線(子どもめせん)」で、仕事をして行かなくてはならない。
 
 
 校長先生の、「人となり」に学ばなくてはならないのだ。
 
 
 
 つくづく、「教育は、人なり」だと、思う。
 
 
 
 自分も、いつか、「近藤の『人柄』に学んだ」という言葉に出会いたいものである。
 
 (しかし、それは、「無理」なことも、わかっている。
なぜなら、学ぶべき「人柄」をもつ人は、「『人柄』に学んだと、言ってもらいてぇ」などとは、思わないからである。まだまだ、人間のできていない、近藤である…。
あれ?昨日の結論と、同じになっちゃった…。だめだ、こりゃ。)

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2007年8月 7日 (火)

お祭りで見かけたAさんのこと

 先週の日曜日も、地域のお祭りだった。
 
 本校の子どもたちが、太鼓で盛り上げた。
 
 
 
 屋台が並んだ。
 
 そこに、この夏休みの生活を心配していたAさんが、友達と一緒に、いた。
 
 担任の先生が、手を振る。
 
 Aさんも手を振り返す。 
 
 担任の先生が、「Aさん、来ていますよ。」と教えてくれる。
 
 
 
 本当に、よかった。
 
 夏休み前の、近藤の関心事は、Aさんのことだけだった。(07/07/13ブログ参照)
 
 Aさんのために、「労力・知力」を費やしてきた甲斐があった。
(と今は思えている。しかし、そんなに「教育は甘くない」のも事実である。でも、この一瞬の喜びが、「教育という営為の醍醐味」であることは間違いない。近藤は、一瞬だけでも、この喜びに酔いたいのである…)
 
 
  
 さて。
 
 近藤が、思いを馳せる、Aさんは、近藤のことを、どう思っているか?
 
 「どうも思っていない」であろう。
 
 せいぜい「見たことのある先生」、よくて「うちの学校の副校長先生」である。
 
 それ以上でもなければ、それ以下でもない。
 
 
 
 それでよい。
 
 名もなき大人が、具体的な子どもの成長や幸福を、心から喜ぶ。
 
 当人は、一生、それを自覚しない。
 
 あぁ。ドラマティックだなぁ…。
 
 
 
 自分の思いに対する「見返り」を求めた瞬間、自分の思いが「うそ」になる。
 
 Aさん。楽しい夏休みの後、元気に、学校に来いよ。
 
 君の知らない大人(近藤のことです)は、それを、切に願っているよ!
 
 
(だめである。
 サイテーである。
 この思いを、ブログに書いた時点で、「見返り」を求めた醜悪な大人になってしまっているのだ。
 こんなことは、自分の気持ちにしまっておく方が、はるかに、美しいのに…。

 言い訳をする。
 このブログは、「自分の気持ちに正直に」というのもコンセプトの一つになっている。
 なので、恥を忍んで、書いたものを、公開してしまった。

 まだまだ、人間のできていない、醜い近藤の本姓である。)
 

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2007年8月 6日 (月)

緩急

 夏休みである。
 
 学校が、静かだ。 
 
 職員室には、日直の先生くらいしかいない。
 
 
 
 子どもの声のしない学校。
 
 
 
 不思議な空間である。
 
 
 
 子どもは、夏休みを満喫しているであろう。
 
 先生方は、研修に励んだり、9月以降の準備をしたり、休養したりしているだろう。
 
 近藤は、あいかわらず、副校長の仕事に追われている。
 
 
 
 しかし、夏休みである。
 
 時間の流れは、いつもの学校に比べ、ゆるやかである。
 
 
 
 リズムがあり、緩急がある授業は、よい授業だ。
 
 学校の一年間にも、リズムがあり、緩急がある。
 
 
 
 夏休みは「緩」である。
 
 来るべき「急」にむけ、しっかりと力を蓄えておきたい。
 
 
 
 夏休みあけが楽しみになるくらい、しっかりと…、ね。

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2007年8月 5日 (日)

真夏の情景

 酷暑が続いている。
 
 
 
 この時期になると、「戦争」を取り上げた番組が多くなる。
 
 夏は、戦争の記憶とつながる。
 
 あたりまえだが、近藤は、戦争を知らない。
 
 
 
 学校で、「平和教育」に取り組んだことがあった。(二十代の頃である)
 
 その時の、近藤の結論。
 
 「心の底から『二度と戦争をしない』と思うような教育をするには、『もう一度戦争をする』しかない」…。
 
 なんという、浅はかな結論、むちゃくちゃな結論であろう。
 恥ずかしい。
 
 
 
 しかし、何のとらわれもなく、真剣に考えた末に、この結論に達したのだ。
 
 つまり、「体験」をしていないわれわれ世代が、戦争について、何を教えたって説得力がないと思ったのである。
 
 
 
 しかし、現在の結論は、違う。
 
 「体験」をしていないことを感じ得るには、大いなる「想像力」が必要であり、この「想像力」こそ、「賢さ」なのだと、思うようになっている。(2007/2/18ブログ参照) 
 
 「体験」不足は、「想像力」で、(ある程度は)補うことができるのである。
 
 大いなる「想像力」によって、「戦争をしない」人間が増えてほしいと、思う。
 
 
  
 酷暑でぼーっとしながら、ふと、そんなことを、考えた。
 
 近藤にとって、真夏の情景は、不戦の誓いと密接につながっているらしい…。
 

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2007年8月 3日 (金)

急成長

 昨日、若い先生方から、連絡があった。
 
「一次試験、合格しました!」
 
 教員採用試験の一次試験合格の連絡である。 
 
 うれしかった。
 
 どの先生も、教師としてのセンスをもった、将来を嘱望できいる若者である。
 
 ぜひ、先生になってほしい。
 
 
 
 今日は、「全国小学校学校行事研究会全国大会」に参加した。
 
 前任校の若い先生が、堂々と、発表していた。
 
 正直、びっくりした。
 
 
 
 若い先生方の、成長率は、すごい。
 
 1年前までほんの駆け出しだった先生が、1年経つと、急成長をとげる。
 
 自分は、1年前と変わらない。
 
 いや、授業をしていない分、教師としての力量は、衰えているであろう。
 
 
 
 しょうがないことだ。
 
 その分、「若い副校長」として、「急成長」できるように、精進したい。
 
 しかし…。
 
 「まだまだ、君たちには負けないぞ!」
ということを事実で示してやりたいという気持ちは、ある。
 
 夏休み以降、少しずつ、自分の教師としてのフィールドを、確保していく努力をしようと思う。
 
 本業が、おろそかにならない範囲において…。
 
 
 
 若い先生方の成長を期待しつつも、「現役」にこだわり続けたい、近藤である。
 

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2007年8月 1日 (水)

徒歩、約1時間

 昨日、本日、学校から、徒歩で帰宅した。
 
 距離にして、6.2~6.3kmくらい、時間にして、1時間10分弱の道のりである。
 
 
 
 歩きながら、考える。
 
 ここ10年くらいは、夏休みといえば、全市的な発表会の準備に追われていたなぁ。
 
 夏休みあけ以降の教材研究や単元開発に取り組んでいたなぁ。
 
 水泳指導、水泳大会の準備や役員、とにかくプールの管理や水泳指導に勤めていたなぁ。 
 
 
 今年は、まったく違う夏休みを過ごしている。
 
 全市的な発表の機会もなければ、教材研修もしないし、水泳指導もない。
 
 その代わり、管理職研修や、学校の管理、服務管理などの仕事をしている。
 
 
 
 ちょっと、さみしい気もする。
 
 しかし、これまで、近藤が、夏休み中に、安心して水泳指導や教材研究をすることができたのも、その時の管理職の方々がいたおかげなのである。
 
 今度は、先生方のサポーターに徹したい。
 
 近藤の今の仕事は、「副校長」なのである。
 
 
 
 先生方が、安心して、夏休みの研修に励んだり、じっくりと充電したりできるよう、近藤も「副校長」の仕事をまっとうしよう…。
 
 そう思ったら、自宅についた。
 
 
 
 1時間くらいの徒歩は、思索を深めるには、適当である。

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